十八世紀の火星旅行記 種村季弘 

 ――SFの古典というと、どういうわけか島ユートピアの話と月世界旅行がほとんどだね。月は近そうなので、月世界旅行なら実現可能と昔から思われてたせいかな。
 ――いや、月は死者の国と考えられていたから、月世界旅行は冥府降下神話の変形だろうね。ホメロスから、バロック文学の昇天幻想まで、夜と死への憧憬が月世界旅行記の基盤となっている。そうはいってもシラノ・ド・ベルジュラックなんか太陽の国旅行を書いているし、ヴォルテールシリウス星と土星の住人が地球に寄り道する話を書いているらしいね。パロックも後期に入ると月世界ばかりが異界ではなくていろいろなヴァリエーションがあらわれてくる。啓蒙主義時代となると、もうずいぷん現代に近いよ。そういえばこの間もドイツ後期啓蒙主義時代に書かれた、カール・イグナツ・ガイガーの「ある地球人の火星旅行記」(一七九〇年)というのを読んで、とても面白かった。
 ――十八世紀の火星旅行記か。そりゃ面白そうだな。ユートピア物語かい。
 ――終りの方になってモモリーというユートピアが出てくるんだけど、そこへたどり着くまでのパパグワン、プルンパツコ、ビリビイなんて国は、まァあんまり住みよい国じゃなさそうだな。最初のパバグワン国というのは一種の神権国家で坊主が絶大な権力を持っている。王様が善政を布こうとすると、皇太子をたぶらかして毒殺しちゃう。プルンパツコ、ピリビイの両国は軍神マルス(=火星)の名にちなんで、物凄い軍事独裁制国だ。
 ――聞いてるとなんだか啓蒙主義の政治諷刺的バンフレットみたいだけど、SF的な奇想は凝らしてないのかい。
 ――かなりあるんだ。たとえばパパグワイ国では家がローラーの上にのせてあって絶えずあちこちに凄いスピードで動き回っている。引っ張っているのはラクダに似た火星生物で、上流階級になるほどその数が多くなるというわけだ。そのためにパパグワイ国では都市が定った場所に形成されない。一夜にして砂漠のまん中に大都市が出来上っているかと思うと、つぎの日にはもうなんにもなくなっている。食事の習慣も面白いよ。食事が自動的に動き回って欲しいと思うと皿がすぐ眼の前にくるものだから、サービス係の従僕が必要ないのだ。宗教的な慣習も、毎日いたるところで神様の肉を啖うとか、かなり奇想天外だけれど、反教権主義的なキりスト教のパロディーの尻か割れてくるとこれは案外つまらない。
 ――すると作者は、反教権、反独裁、反封建主義的な啓蒙主義的知識人なのだね。
 ――まアそうだ。青年ゲーテと同時代の急進的な自由思想家だね。故郷のエルリンゲンの領主をからかったために追放されて、ニュールンベルク、パイロイト、ライブチッヒ、ミュンヘン、イェーナなどを転々とし、半生を放浪のうちに過して病死している。アングロマニアだったガイガーの理想は英国風の議会民主制を封建君主制のドイツに移植することにあったらしいが、晩年にはより急進的にルソー主義に傾倒し、どうやらドイツの神秘主義的秘密結社光明派の首領アダム・ヴァイスハウプトとも接触があったらしい。
 ――しかし先刻の話だと、パパグワイ国では坊主どもの謀略にたいして毒殺される王様の「善政」に同情的だったようじゃないか。とすると当時の妥協的な啓蒙主義者ニコライなんかと径庭のない政治的俗物にすぎないみたいだな。
 ――理論的には個々の封建領主の善政悪政か是と非とで観察するよりも、君主制そのものの急進的な否定にまで到達しているのだけれども、現実にはヨーゼフニ世のような開明的進歩的な君主にドイツ統一の希望を託していたらしいね。ヨースト・ヘルモントというガイガー研究家の説だと、パパグワイ国の王様のモデルは実際にヨーゼフニ世その人だったらしい。ところかガイガーの伝記では、あらゆる君主や大学で門前払いを食ったり冷飯を食わされたガイガーが最後にヨーゼフニ世に保護を求めにいくと、先方は「余はすでに保護しなければならぬ人材を十分抱えている」というので、あっさり満員御礼の札止めを食ってしまう。不運な男だ。
 ――小説にもどろうか。最後にたどりついた理想の国モモリーはさぞかし種もあれば仕掛けもある結構づくめのユートピアなんだろうな。
 ――あにはがらんや通常の意味でのSF的な未来風景は絶無なんだ。人びとはほとんど着物も着ていないし、科学的な便利はひとつもない。朝、太陽の出とともに起きて落日とともに寝る、いわゆる「単純生活」だね。モダンなところが全然ない、むしろ東洋的な桃源境に近い。モアのような理想秩序すらないので、老荘アナーキズムとたいへんよく似ているような気がする。そこら辺がかえって非常に現代的かもしれないね。現代的といえぱユートピア・モモリー国には一種のフリー・セックスが公然とおこなわれているんだ。地球人が道ばたで真昼間からお祭をはじめている連中のそばを通りすぎても全然動じない。私有の観念も、したがって財産譲渡の慣習もないので、誰の子が生れようと一向にかまわないんだね。原始母権社会の共産制というより、いまのヒッピーみたいだな。この理想国のモデルは流亡先のひとつスイスの高原地帯アッペンツェルの農
民生活だそうだ。ガイガーはアッペンツェルの農民たちが「労働」にではなく「踊りと遊戯」に生活のリズムの基盤をおいていると考えていたらしい。
 ――ますます東洋的農本主義の美的至福だな。
 ――小説の冒頭でも主人公はヨーロッパではない世界大陸にいて、飛行方法も当然数年前(一七八三年)にフランスで実証されていたモンゴルフイエ兄弟の熱気気球が使われるのが本筋なんだか、わざわざ一六七○年頃のシナのジェズイット会士P・ラナとスペインのバルトロメウ・ロウレンコ・デ・グスマノのあやしげな空気気球発明の記録を引っ張り出してきて、その古めかしい装置で昇天している。これは気球というより一種の空気船で、舵手のほかに数人の漕ぎ手か乗船して古代のガレー船のように空中を手で漕いでいくのだ。ガイガーは当時のジェズイット教団産業革命と結託して、善男善女に教会で綿労働者になるように説教しているのに憤慨しているから、当然技術工業文明を敵視している。その意味ではたしかにお説の通り、東洋的な美的アナーキストといえるかもしれないね。ともかくSFといえば白痴的な未来信仰技術礼賛一色の現代に、こん
な後向きの急進啓蒙主義者(!)の火星旅行記が発掘されてくるのもなにかの予兆なのだろうな。なんでも原本はミシガン大学に一冊しかないそうだけれど、一冊でも残存していたのがノアの奇蹟だろうね。