安部氏と氷河期 日下実男

 安部公房氏との最初の出会いは、『第四間氷期』のせいである。早いもので、考えてみると、もう十三年くらいも前のことになる。私はその頃、朝日新聞社の科学部に籍をおいていた。当然、いろいろな人との交渉があったが、そのなかに、文学好きの好青年が一人いた。
 私たちは顔が会うと、数寄屋橋の近くの鰻屋の小座敷などに上がりこみ、一杯やっては気焔をあげたものだ。もっともキエンをあげるのは、たいてい私の方で、大学を出たばかりの彼は、たまに奇想天外な小説の粗筋を語るくらいのものだった。
 そんなある日、「安部さんに会ってくれませんか」と、突然、彼がいいだしたのである。聞いてみると、安部氏は海とか氷期などの問題について取材したいそうで、たぶん鰻屋での私の怪キエンの中身が、海底火山だとか、深海だとか、あるいは地球と人類の未来といったようなことが多かったために、彼が仲介役をつとめる気になったのだと思う。
 当時、仏はフランスのバチスカーフFNRS3号に乗って、宮城県金華山沖の深さ一千メートルをこえる深海に潜水した直後であった。またその数年前には、海底火山明神礁の大爆発や、神秘な火山島が生まれ、そしてまた崩れ去ってゆく姿などを、目撃していた。
 だから、人に会って酒でも入れば、自然にそんな話がよく出たのだた思う。とにかく別な日、安部氏は一人で、朝日の玄関の受付にやってきた。むろん、初対面である。
 新聞社には、粗末な丸テーブルを五つ、六つ置いただけの、薄汚ない面会部屋しかなかったので、人が来れば、ほとんど外へ出ることになる。私は安部氏を、行付の銀座のおでん屋の二階に誘った。そして酒を飲みながら話をすることにしたのだが、氏はすでに、この作品の構想を頭のなかで、かなりはっきりとまとめていたように思われる。
 なぜなら氏の質問は、氷期とか海とかについての一般的なものでなく、海面の上昇とか、氷期の終末などについて、自分はこういうことを考えているが、どうか−−というような、いわばダメ押しの問いかけが多かったように記憶するからだ。
 その頃は、実際に海面が上昇しつつあった。たとえば、一九三○年以来、アメリカ合衆国の全海岸にそって、海岸陸地測量部の検潮儀には、海面の上昇が感知されてきた。マサチューセッツ州からフロリダ州に至る延長一千マイルの大西洋岸や、メキシコ湾の沿岸で、一八年間に、およそ三分の一フィートも、海面が高くなったことが観測されたのである。
 太平洋岸でも、海面はゆっくりと盛り上る傾向を示していた。しかもこのような検潮儀の記録は、暴風などによる一時的な昇降が原因ではなく、海水が絶えず一様に、陸地に向って浸攻しつつあることを物語っているように思われた。
 過去百万年の間に、氷期は四度地球を襲い、そのたびに海は沖合い遠く退いていった。そして私たちはいま、最後のウルム氷期が、約一万年前から八千年前の間に、突然、終りを告げた後の気候の温和な第四間氷期に生きているわけである。
 氷期がなぜ、地球の年齢から見たら、ごく短い期間に四度も襲来したかにっいては、今日でも定説がない。イギリスのホイルのような天文学者は、原因を彗星の分裂に求めているが、地質学者の多くは、造山運動のような、地球内部の原因によるとしている。
 造山運動は、地向斜と呼ばれる堆積物をためこんだ海の底が、むくむくと頭をもたげて、新らしく高い山脈などを形成するものだ。地向斜は、堆積物の層が一万メートルに達しても、まだ埋まらないという底なしの海である。深さ一万メートルのところでは、三千気圧もの圧力がかかっている。
 このような海底の堆積物の層が、凄まじいエネルギーで上昇するときにに、火山の活動などに伴って、大量の地熱が失われる。新らしく陸地ができた結果、地球か失う輻射熟の最も多くなる。
 こういうことがからみあって氷期になったというのが、いわゆる内因説である。が、こういう造山運動だけでは、第四紀の氷期は、一回しか説明できないとする人も多い。
 そういうわけで、氷期の原因はいまも謎めいているのだが、私が安部氏に会った頃は、地球はまだ温暖化の傾向にあり、海面の上昇も、氷河が溶けているせいだろうと見られていた。
 もっとも検潮儀による広汎な観測は、アメリカでも、わずか散十年前から始ったばかりだし、世界的に見れば、記録のとれない地域の方がはるかに多かった。だから海面の上昇が全地球的に起こっていたかは、知る由もなかった。しかし一方では、地球の上層に、人間の文明の排出した炭酸ガスが厚くたまりだし、そのため温室効果によって、気温はますます上昇し、やがて極地方のすぺての氷河はとけて、世界の海岸都市はことごとく水没するであろう−−という人もあった。
 とにかく、あのころは地球の温暖化ということが、問題になっていたのである。ところが一九六三年頃から、北半球では寒冷化が目立つようになった。最近の大西洋域における極氷の広がりは、今世紀に入って最大といわれるのである。
 このような傾向は、氷期の始まりとよく似ている。原因は公害のせいではないかという人もあるが、よくわからない。はっきりしていることは、氷期間氷期は、地球の長いリズムの一つであるが、その間に、自然的、人為的な短かいリズムが繰り返し起こりうるといらことであろう。