《変形人間》雑感 高野斗志美

『第四間氷期』(講談社旧34・7)のあとがきで、安部公房氏は日常性の問題について、次のようにのべている。


 日常の連続感は、未来を見た瞬間に、死ななければならないのである。未来を理解するためには、現実に生きるだけでは不充分なのだ。日常性というこのもっとも平凡な秩序にこそ、もっとも大きな罪があることを、はっきり自覚しなければならない。


第四間氷期』にふれておけば、これは、おそろしい小説である。主人公の勝見博士は、海底開発協会支部委員会によって、死を宣告される。しかし、ほんとうのことをいえば、博士は、自分自身によって、死をいいわたされているのである。なぜなら、小説が、あきらかにしているように、《現実》の博士を断罪するその声は、未来予言機の中の、博士の未来形から、ひびいてくるからである。
 実際、わたしたちは、しばしば、勝見博士と似たような仕方で、歴史から、断罪されてきたといえる。日常性の細部に密着して生きているわたしたちは、歴史というものが、未来からやって来るものではなくて、いつも、この現実から前方にむかって生いしげっていくものだと、思いこんでいる。そして、世界とは、かくかくのものでなければならぬという、漠然たるイメージを抱いている。しかし、どうだろう。気がつけば、ある日、わたしたちぱ、かくあると信じていた世界像とは、異質な、見なれぬ、怪異な現実にとりかこまれているのだ。そして、あわてふためいて、悲嗚をあげる。これはちがう、これは、わたしたちのものではない、と。
 だが、そうだろうか。いまやわたしたちのまわりを、すっかり包囲してしまっている新しい現実は、よく考えてみると、やはり、わたしたち自身が、作りあげてきたものではないだろうか。
『第四間氷期』にかぎらず、安部公房氏は、多くの作品において、わたしたちを呪縛しているこのような自己欺瞞を、鋭く抉ってみせる。日常的生のうちに、未来が浸透し、現実を変質させ、そして、人間そのものを変貌させていく。いわぱ、わたしたちは、やがてわたしたちの生に敵対するであろう自己の未来形を、みずからの手で作りだしているのである。
 安部公房氏は、日常性にひそむこの矛盾というものを、鋭い思考で把え、鮮明にイメージ化し、まさにそのイメージの勁さにおいて、わたしたちを、撃つのだといえよう。
 氏は、「デンドロカカリヤ」いらい、変形人間をあつかった一連の作品を書いてぎた。そこには、実にさまざまな種類の変形人間が、登場している。植物人間、壁人間、繭人間、液体人間、ロボット人間、幽霊人間、棒人間、緑色人間等々。これらの変形人間は、いずれも、明快に視覚化されていて、作品の世界を、いきいきと歩きまわる。だが、それだけではない。氏の、いわゆる変形譚に登場する、これらの変形人間には、程度の差こそあれ、いずれも、鋭い告発性が、ひしめいているといえる。たとえば、「鉛の卵」、『第四間氷期』、『人間そっくり』などの、未来小説の形をとった作品においては、わたしたちの存在感覚をはげしくこするような告発性を、変形人間たちは所有しているのであって、安部公房氏は、そのような変形人間を、明快に、視覚的に、イメージに造型することによって、事物の秩序につながれて、自分のほんとうの生の形から眼をそむけているわたしたちの、日常的感覚に埋没しているその退廃というものを、したたかに撃ちのめすのだといえる。
 そこに、安部公房氏が造型するイメージの、心を刺してくるような、戦慄がある。そして、これは、当然なのである。なぜなら、わたしたちは、やはり、存在の暗部ともいうぺき意識の場所で、現在と未来があいまじりあっていることを、知っているからである。それらふたつのものが混沌と交流するその場所において、既成の観念では、とうてい把えることのできない、異形な生が、形をなしつつあることを、予感しているからである。そして、安部公房氏は、わたしたもの生存の根底に芽をふきはじめている、その予感をぱ、ありありと見える形のものとして、眼の前においてくれるのである。いうならば、わたしたちは、氏の作品を介して、あいまいな生存そのものを、自覚的に把えかえし、主体化していく冒険を、体験するのである。
 変形譚についていえば、それは《存在》の変形を主題とした「デンドロカカリヤ」のレヴェルのものと、《状況》の変形を主題とした未来小説のレヴェルのものとに、おおまかに、わけることができよう。そして、これらの作品をとおして、わたしたちは、精神の新しい飛翔、想像力の自由な運動を、存分に味わうことになるだろう。だが、同時に、この冒険にみちびかれながら、わたしたちは、安部公房氏の作品によって、心の深部が、硫酸をながしこまれたように、灼けただれていくのを、感じないわけにはいかない。なぜなら、そもそものはじめにおいて、変形人間は、出口のない日常世界に監禁されている人間の、自由をのぞむその願望に、基礎をおいていたからである。出口のない願望の、その悪夢こそが、変形人間のイメージなのだ。そこで、安部公房氏は、その悪夢が、無限におのれを啖いながら、極限にいたって、いかに反人間的な顔を持つものに変容しているかという問題にいきつく。《これが、わたしなのか!》という恐怖の声が、わたしたちをさしつらぬくのは、けだし当然である。そして、読者がもし、その恐怖を再確認したいとのぞむならぱ、おおいそぎで、安部公房氏の戯曲集を、ひもとくことである。意識の底を焼きはらうことなしに、わたしたちが、みずからの自由を手に入れることは、ついにできないという、おそろしい体験が、そこに待ちうけているからである。