土方的SF賛成論 荒巻義雄

「……SFは高級な一種の白痴芸術ではないかと思った。たとえば歌舞伎の荒唐無稽さやオペラのばかばかしざに通じてゆくところがある」といった、ある中くらいの文芸評諭家がいた。この人は知性的なのだろうか、それとも痴性的なのだろうか。どうせ物にたとえるのなら、あんな高級な歌舞伎やオペラになぞ、なぞらないで、『よってらっしゃい、みてらっしゃい。お代はみてのお帰り』の場末のストリップや、女剣劇か、祭りの見世物にたとえて欲しかった。
 三島由紀夫安部公房北杜夫といった作家をのぞけば、SFに対する文化人の評論は大体こんなところである。
 だが、白痴の痴という字が、病だれに知と書くとおり、痴は病める知のことだ。SFがこの評論家の眼に痴的に映ったのは、方法としての痴、知性の逆説としてのSFの痴性に気づかなかったからだろう。ぽくも、かれこれ十数年、この白痴芸術とつきあっている一人だが、SFをばかばかしいと思って読んだことは一度もない。ぱかばかしいのは病める痴性の横行する現代社会の方である。そうじゃなかろうか。
 確かに文学者は偉くなった。小説家が国会議員になったり、文学碑なるものが建ったりする。文芸雑誌にはポートレートがのる。文化勲章をもらう。でもこの小説家という名の芸術家は、昔は、河原乞食と大同小異だったのである。今では大学の先生が小説を書いているが、昔は葛西なにがしなんてどうしようもない大酒のみだの、髪結の亭生みたいのが、小説家になったものだった。
 小説なんてものは、その素生を探れば、多分に痴呆的であり、元々、無頼漢的だったのだ。でも、その時代のように落第生や軟派学生や生活不能者の書いた小説の方が、はるかに人間的に生々としていて面白かった。あの頃には小説があったのだ。今はない。秀才方のお書きになる現代小説はスケールが小さい。日本の小説を面白くなくしたのは志賀直哉という小説の神様だ、白樺派新思潮の連中が、小説を駄目にしたのだ。日本を代表する川端文学も谷崎文学も、どうみたって庶民生活からは縁遠い存在だ。少年から老境へとぴこしており、青年や壮年の時代がない。社会にとって一番大切な働きざかりのその時代がない。そんなわけで、ぼくとしても世間の文学青年並に、読書は沢山してきた方だが、結局、目本の現代小説には入りこめるすき間さえなかった。もし共感を得たとすれば、せいぜい戦後の戦記文学、戦前のプロレタリアート文学ぐらいだったと記憶している。
 むろん海外小説は、大いに読んだ。でもこれだってあらかた読み尽してしまい、結局、SFにもどってきたのである。釣は鮒にはじまり鮒におわるというが、ぼくの場合は、読書はSFにはじまりSFにおわりそうだというわけだ。
 少年時代には海野十三山中峯太郎南洋一郎を読んだ。あの頃は読む実感があった。愉しかった。懐中電灯をもってふとんの中にもぐって読んだ。読書とは一体なんだろう。愉しく読んではいけないものなのだろうか。偉い先生方のおっしゃるように、読書は人生の糧を第一義とすぺきなのだろうか。ひと昔前の山賊やお姫様や英雄豪傑が活躍した立川文庫の講談本は悪書なのだろうか。だから、今のSFはだめな本なのだろうか。
 でもそんなのは嘘っぱちだ。コンコンチキだ。現代小説に人生の糧などあるものか。むろん例外はある。でも大部分の日本文学の描く世界たるや、家庭の中のいざこざだとか、芸者をひかせる話だとか、銀座のホステスと何することだとか、上流社会のあでやかな生活だとか、不良少年のヨット遊ぴだとか、安保闘士の転向の話だとか、確かに芸術的で良心的だが、およそ一般人にとっては縁遠いお話ばかりではないか。
 冗談じゃない。こんな小説から人生の御手本を学ぷやつばかり出てきたら、日本国なんて五年もたたないうちに破産してしまうだろう。
 つまりそういうことなのだ。なぜ、日本のSFが、一部の文芸評諭家たちの罵詈雑言に耐えなから、ここまで読者をふやしてきたのか。広告だってあんまりしないのに、読者が本を買ってくれるか、口コミで紹介してくれるか。要するにSFが日本の現代小説が満そうとしていないもの、新しい読書世代の渇望を満そうとしているからではなかろうか。だから着実に伸びているのだ。この狂った現代に問いかけるから、抑圧された若者を新しい世界へ、センスオブワンダーの旅にさそうからとはちがうか。
 というぼくは、昭和八年生のちっぼけな土建屋だ。ぼくは文学にあきたらなくなって、土方になった。いまは家を建て、下水を入れ、道路をつくっている。本物の人生はここにあった。そんなほくにとって、実生活の余暇を利用して、SFを読み、また自分で書くことが、一種の生きがいになっていることを告白しよう。
 むろんひと口にSFといっても、種類は色々だ。ぼくはぽくなりに、それは知識の小説だと考えている。文学青年、いま技術屋のはしくれとなったぼくにとって、実生活から得た色々な事柄、体験や知識や願望やそこで得た人生観やそんなことを、最もふきわしく書きあらわすことのできる形式は、このSF以外にはないのである。SFは、ぼくの現実生活の延長した世界なのだ。それは現実から遊離した絵空事の世界ではないのだ。それを空想だといって軽蔑する人は、きっと、本物の実人生だって本気になって生きていない人たちたのだ。
 知識は現場にあってはじめて生きてくるものだと思う。知識というものは、土や油やインクやそういった現場特有の匂いと入りまじってはじめて本当に、人間的に、人間の実存にかかわりあってくるものではないだろうか。書斎人の本の中や、エリート的な知識人の頭の中にある知識は、単なる知識でしかないのだ。お百姓や運転手や工員さんや、ラーメン屋のおやじや、一般サラリーマンやそういった人々が、それによって生活している知識こそが、本物の知識ではないのか。そういう知識を盛りこめるのはSFしかないと、ぼくは思う。それは日本の文壇的な小説の世界からは縁遠いものだ。でも、生活する人間にとっては、この方がよっぽど大切なものだ。
 その昔、アートという言葉は、芸術と共に技術をも意味していたという。それを今こそ思いおこそう。SFはいわゆる芸術至上主義的小説を目指さない。でも、そこには現代小説が見落している、すごく大切なものが一杯つまっている。つめこめる可能性がある。土方のように気どりのないこの小説形式は、現代社会にあって、最も可能性のある、未開拓の余地の一杯ある、小説の新しい土壌なのだとぼくは思う。