タイモン・スクリーチ「江戸の大普請 徳川都市計画の詩学」(講談社 asin:4062143801)

図書館本、読了。新刊が刊行されるたびに、「江戸人の観点」からの新鮮な「江戸世界」を切り開く、江戸学の鬼才の新著。


ただ、今回は、本人も書いているように、「従来の専門の図像学的な内容ではなく、『狭義の江戸学』(江戸の都市設計研究)が対象」であり、素人の私には、先行研究と比べてこの本がどの程度、画期的なのかわからない。
だが、スクリーチの他の本同様、抜群に刺激的で、面白い本だった。


たとえば、上野の寛永寺が「江戸の鬼門」を守るため作られたことは有名だが(ちなみに、浅草寺寛永寺は、「どちから鬼門を守るか」で激しいに紛争があったという。幕府は寛永寺側を支持し、紛争は終わったという)。
そうした各種建物類の建築は、「京をモデル」にしたものだという。(田舎くさい江戸は、必死で京のオーラをまとう必要があった)


たとえば、寛永寺延暦寺をモデルにして作られた。であれば、その側にある「忍の池」は琵琶湖に見立てられ、琵琶湖内の竹生島と同様に「弁天を祭る小島」が作られた。また、清水寺の小型版「清水堂」が、寛永寺内に作られた。
また、江戸の東を流れる隅田川は、鴨川にみたてられた。また、京の南西になる三十三間堂も、それに模したものが浅草寺近くに作られ、京での名物であった「通し矢」(長い廊下の端にある的に矢をあてて、腕を競うもの)が、江戸でも行われた。
また、京の標高900メートルの愛宕山に、似た山(ただし、標高はわずか30メートル!)も、愛宕山となづけられ、京同様、落語で有名な「かわらけ投げ」の行事も行われた。


江戸の「裏鬼門」である西南を守るのは増上寺であった。表鬼門である上野には、その先に吉原と千住の刑場があったが、同じように裏鬼門の芝の先には、品川の遊郭と鈴ヶ守の刑場があった。
そして、その当時の京には、秀吉がたてた方広寺の大仏があった(現存せず)。そのため、江戸も寛永寺内に高さ7メートルの「大仏」が作られた(これも現存せず)。


これらは京の真似であったが。
その他、江戸独自の聖地として「日本橋」が作られた。日本橋は当時としては画期的な広い端で、またアーチ状であるため、その突端では広い景色が見え、江戸城と富士山とが同時に見渡せた。富士山は、江戸が京に対して優越するための最高の物件だった。日本橋から始まる「東海道五十三次」の53という数字は、善財童子が悟りをひらくために訪れた場所の数だった。
日本橋のすぐ側には、江戸の時間を司る「時の鐘」ががあった。そのすぐ側には、江戸を訪問するオランダ人たちが宿泊する「長崎屋」があった。


また、日光は江戸の真北にあり、その「日の光」という地名は、「東照大権現」という家康の神号の「日の神」という属性を補強するものとして、役だった。


「あまり知られていない寺」としてスクリーチがあげている寺は、明の滅亡の際に日本に亡命した禅宗の一派、黄檗宗の僧たちが立てた、本所の五百羅漢寺だ。この寺は中国風の建築様式であったため、そのエキゾシズムの魅力で参拝者を多数あつめた。またこの寺内には「さざえ堂」という建物がたち、螺旋状にのぼっていくと、非常に高い風景を見渡すことができた。


また、前近代では、その場所が「名所」として有名になるためには、「和歌の歌枕」として認識されている必要があった。江戸には歌枕はほとんどなかったが、「伊勢物語」の業平が隅田川を渡って「都鳥」という鳥を見ていたのが、非常に役にたった。