最相葉月の評伝「星新一」を再読

唐突だが、最相葉月の評伝「星新一」を再読したところ、はまってしまい。最相氏の星新一関係の本を、入手して読み漁っている。

 

小説新潮」の星新一特集号を読んだりしているだが。
評伝効果で、「安部公房のライバルと呼ばれながら、晩年は子供向け作家とされた悲劇の人」と言う、最相さんの星新一の再評価に、完全に洗脳されてしまっていたのだが。
小説新潮」に収録された3作品を読んでみたところ、56歳の私としては、あまりにも平明すぎて引っかかりのない文体に、物足りなさを感じてしまった。

 

星新一のエッセイは、今でも好きであり。なかでも「進化した猿たち」は、類作がない名著と思っている。彼に、小説家の才能がなく、エッセイのみを発表する著作家であったなら。知る人ぞ知る、名コラムニストとして、かえって名を残したかも、などと夢想している。

 

小説新潮」の特集で、大森望氏がセレクトした三作の中に、老医師が、自分の部屋でこっそり、赤ん坊時代から、15歳の少女を育てており、彼女は言葉を教えられていないので、話せないと言う作品があった。人間の言語本能に反しており、また話がありきたりすぎで、どうしてこんな作品を大森さんが選んだのか、不思議だったのだが。
中学生の頃に読んだ星作品のなかからのセレクトと言うことで。大森さんもノスタルジーで選んだのだなと、納得した。

 

中高生の頃に熱狂した方星新一を、大人になってから、どう評価するかと言うことは、SFファンにとっての永遠の宿題と言う感じで。

大江戸エヌ氏の会の代表をされていた、牧眞司氏は、ストレートに、星さん、SFファンは、みな、あなたのことを評価していましたよと、発言されていたが。
そういうふうに、普通に星新一への評価を語れる方は、羨ましく思う。

また、浅羽通明星新一論は、秀逸なものだったが。SFプロパーではない人だからこそ、書けたように思う。

 

それで、思い出したのだが。ただ1人、星新一の弟子を名乗った、江坂遊に。星新一から教わって実践をした、異質のもの同士を組み合わせると言う手法を説明した「ちいさな物語のつくり方」と言う本がある。
この本の題名の、漢字の少なさからして、星新一流で、内容も良い本だった。

 

SFつながりで言えば、片山杜秀「見果てぬ日本」の中の小松左京論が、小松左京の創作の原点を的確に指摘したもので、感嘆。
だが、その本の、次に書かれている司馬遼太郎論が、あまりにも長くてくどく。閉口しているところ。