「柴野拓美さんを偲ぶ会」

13時半から、大岡山の駅前の、東工大・蔵前会館で開催された「柴野拓美さんを偲ぶ会・第1部」へ。

  • 最初のパネル「SF翻訳家・小隅黎さんについて」。
  • 司会:牧眞司、パネラー:高橋良平酒井昭伸鍛冶靖子(別名:梶元靖子)。
    • 酒井・鍛冶両氏は柴野さんの翻訳の弟子で、下訳も体験されたという。
    • お二人のお話だと、柴野さんにとっての下訳は「語彙をひろげる、ミスを出さないための、リファレンス」で、下訳に手を入れる訳ではなく、一から訳し直していたという。下訳に赤を入れて訳す場合は、「共訳」名義にしていたという。酒井氏・鍛冶氏とも、下訳の出来が悪いと、厳しく怒られた話をされていた。なお、酒井氏は「訳し分け」の共訳はやったことがあるが、前記の意味の共訳を一度、柴野さんとニーヴンでやりたかったと。
    • また、酒井氏は「下訳を使うのには才能がいる」とも。柴野さんの根底に「人を育てるのが好き」ということがあったのと、「エンジニア気質」がそれに向いていたのではということだった。今では下訳を使う立場になった鍛冶氏は、「つい、柴野さんと同じようなことをしている自分に気がつく」と。
    • 有名な「翻訳勉強会」では、自分が翻訳している本についての疑問を、ネィティブの人に聞くのだが。柴野さんの付箋が一番多かったと。珍しい単語が使われている場合、「単語の意味はわかるのだが、どうしてこの単語が使われているのか」を訊ね、納得するまで質問をやめなかったという。
    • 原書の間違いを見つけると原著者に指摘の手紙を書いていたというが。有名なのが、「リング・ワールド」で地球の自転が逆だったことだという。しかし柴野さんは、ノウン・スペース・シリーズの未知の短編で「地球の自転が逆になる」話があるのかと考え、そういう意味でニーヴンに問い合わせをしたという。
    • 柴野さん=ハードSFという印象があるが、一方で「文芸の人」でもあった。元来、小説家を目指していた。また、旧制・四校出であり、そこで人文的な教養も見につけている。ただ、「論理的な文章はかけるけれど、北杜夫のエッセイのような支離滅裂な面白い文章は自分には書けない」(酒井氏)ということもあり、ニーヴンとの出会いもあり翻訳家を天職のように感じられていたのではないかという。68年のBAYCON参加を兼ねた長期のアメリカ滞在で、意識が変わったのではという推測。
    • また、ハードSF好きの筈の柴野さんが、アンドレノートンスペース・オペラを何冊も訳している件について。まず、「宇宙気流」で柴野さんが「火星シリーズを3巻まで読んだら面白かった」と書いていたという。また、68年のBAYCON滞在で、アメリカのどのSFファンの家にもノートンの本があり、それくらいのアメリカで人気作家だと認識していたという。
    • これについては、次のパネルのパネラーで当時の編集者の森優氏が、「早川SF文庫」の娯楽SF路線で、こわごわ柴野さんにノートンの翻訳の依頼をしたところ、意外にも快諾を受けておどろいたと・・、アメリカのSFファンの間で人気だという件は知らなかったと。また、ノートンを原書で読んでもあまり面白くないが、翻訳されたものを読むと面白い。それはスピード感が大事で、いくら柴野さんでも原書は日本語なみのスピードでは読めないから、ということだった。
    • 柴野さんは科学と物語性の両方を兼ね備えた作品が好きだった。そういう意味でハードSF作家であるシェフィールドを「物語性が弱い」と評価していなかった。
    • 「柴野さんが訳してよかった本」として、高橋氏があげたのが「サターン・デッドヒート」。
    • 柴野さんが「あまりやる気がなく訳した本」が「スターバースト」で。浅倉さんから「あまり面白くないですね」と指摘され、やはり真面目に訳さないとバレルねと語っていたという。
    • 酒井氏が最近新訳した「都市と星」。柴野さんはクラークも大好きだから、柴野さんにやってもらえばよかったなあと。さらに「宇宙塵」に他の人の名前で「都市と星」の翻訳が連載されているが、柴野さんが赤を多数入れていて、実質柴野訳であることを、マガジンの追悼文で伊藤典夫さんが指摘していた。
    • 晩年の仕事として「レンズマン」の新訳があるが。「あれはあまり流暢に訳しては駄目。原文が砂をかむような文章だから」と。
    • 今後のお話として、東京創元社の「創ムック」から、高橋氏の「創元SF文庫総目録」が出れば。牧氏役の「SF雑誌の歴史2」、続いて牧氏編の「柴野拓美論集」が出る予定なので、お楽しみにと・・。
    • また、酒井氏はなんと、「ラーマーヤナ」の新訳にもとりくんでいるという。
  • 2個目のパネル「ファン活動の先達としての柴野さんの足跡」。
  • 司会:井上博明、パネラー:森優池田憲章、関口芳昭、山岡謙。
    • パネル開始前に、難波弘之氏のビデオメッセージ。学習院中学1年のころに宇宙塵に入会し、数学苦手だった氏は、柴野さん宅を訪問して半日いつき、SFの話しをして、数学を教えてもらったというエピソード。
    • 森氏は「週刊実話」増刊号のSF特集で宇宙塵の存在を知った話から始め。「変人揃いのメンバーの中で、柴野さんは唯一の常識人に、初めは思えた」と笑いを取る。神保町でのPBコレクションのライバルだった野田さんについては、「柳橋に似た人」と聞いていたので、顔がすぐわかったとのこと。
    • 森氏は柴野さんの推薦で早川書房に入社するのだが、最初は「SFを出す出版社が絶対つぶれますから」と止められたとのこと。「その後、私はプロの世界とファンの世界との板ばさみになって、苦しみました」と流して、福島・柴野対立についてはあまり触れず。
    • 井上氏は、レンズマンのアニメ化のスタッフだったことから、「あなたがいながら、どうしてあんな出来になったのですか」と柴野さんに怒られ、後に便箋4枚もの批判の手紙をもらったとのこと。
    • 関口氏は最初のガタコンのゲストに柴野さんを招く際、ゲスト1人なのに「ゲスト・オブ・オナー」として招待した話など。
    • 池田氏はさすがしゃべりのプロだけあって、様々なエピソードを。柴野さんからは「大伴昌司のミニチュア版」的にとらえられていたとのこと。自分相手だと柴野さんは、SF映画やSFテレビについてのエピソードや感想を色々と話してくれたとの。1951年に「6年の学習」に掲載されたデビュー作「火星留学生」は夢オチになっているが、これは編集者が勝手につけたとのこと。
    • 宇宙塵月例会の合評会はたいへん厳しいものだった。
    • 柴野さんのSFマガジンでのファンジン・レビューは、ファンジン作りたちの励みであった。
    • 客席で指名されてスピーチしていた、東工大同期生で、宇宙塵の初期会員の化学者・安盛岩雄氏。場をさらっていた。「星君」「柴野君」という呼び方だけでうける。安盛氏・柴野さんら同期生が寄付した東工大キャンパス内の桜の苗木が、現在の花見の名所となっている。
    • 他に客席からは、宇宙塵の会員だった長谷邦夫氏が挙手され、星新一のエピソードを披露。
  • 一部最後、幸子夫人の言葉。
    • 柴野さんは小学生から喘息で病弱だった。
    • 音楽好きで、「会議が踊る」の主題歌「唯一度だけ」などをよく唄っていた。また、軍歌を野田さんと一緒によく歌っていた。
    • 今年の星雲賞を自由部門「実物大ガンダム」で受賞した乃村工藝社は、奇しくも、柴野さんの父が関係していた会社。


興味深い話し多々だった。二部は、パーティー形式なので私は不参加。まっすぐに帰宅。
主催の方々、ゲストの方々、ありがとうございました。


会場で配布された冊子「塵もつもれば星となる」には、多数の関係者の追悼文が掲載。斎藤守弘ってまだ健在なのだと驚いたり。瀬川昌男田中光二が闘病中という記述に心痛んだり。牧眞司氏による詳細な年譜・書誌は入魂の出来。
もう一つ配布されたDVDには、1962年の第一回日本SF大会での光景を写した8ミリフィルムの映像と、SF大会を報じたラジオ番組の音声とが収録。