スタニスワフ・レムのスタージョン批判(1973年のインタビューから)

レムが英米SFを痛烈に批判したことは有名だが。
以下に引用するのは、シオドア・スタージョンについての、意外な批判。
同じインタビューでは、アシモフの無邪気さや、ハーバートの「銀河帝国」の退屈さなどを批判し、コードウェナー・スミスが「おとぎ話作家にすぎない」ことを指摘する、等しているのだが。


アメリカSFを批判する際に、こういう形でスタージョンを批判する人は、珍しい。

アメリカSFには二つの疫病がある。「駄作病」と「まやかし病」である。

しかし、価値のまがいものつくりの功罪は非常に由々しい、危険なものである。

それの有名な製造者はシオドア・スタージョンである。皮肉にも、彼は名高い「スタージョンの法則」(「どんなものでも」九十パーセントは屑だ、というもの)の作者である。たしかに彼自身は駄作を書いてはいない、それは真実だ。彼は別なことをしている−−文学のまがいものを生産しているのだ。スタージョンのSFについてのエッセイは「文学としての韜晦(はぐらかし)」と題するべきだろう。
この論題の証明は容易なことではない。なぜなら、スタージョンは「信憑性のある」模造品をつくるからだ。それらを「本当のほんもの」のいくつかと対照してはじめて、巧妙にカモフラージュされた違いを発見することができるのである。
だから、たとえば『オッド・ジョン』をスタージョンの「成熟」と比較してみればよい。「超人」の真の問題はもちろん存在論的なものであって、ビジネスライクな性質の問題ではない。このことはスティープルドンの作品の中で非常に明確に述べられている。(たとえ彼のこの小説の「筋」が概してメロドラマ的なものであるにせよ。)
スタージョンは問題の核心である、『成熟』を明確化しようとする彼のいわゆる試みを導入する際に、中心的な諸概念を置き換えてしまっている。なるほど、この「点」は何も問題点ではない。なぜなら、この語の意味自体が多義性に満ちているからで、主人公ーーつまり超人−−でなくて誰がいったいそれを最初に発見するのか?
ところがスタージョンの主人公は、あたかも大衆の意見(『成熟』についての)を訊いてまわる世論調査員であるかのごとくに振舞う。
そう、彼自身、何をなすべきか、成熟とは何かを知らないのだ。だから彼は『庶民の知恵』に訴えるのである。
ソクラテスニーチェスピノザアインシュタインに匹敵する人物が、街頭で人々に、生の究極の知恵について世論調査する、などということが想像できるだろうか。これが問題のはぐらかしでないのなら、世の中に韜晦というものは存在しない!

これがほかならぬ「ファンダムの未成熟さ」の証明でなかったなら、こんな不愉快なことをこうも長々と述べはしなかったろう。ここ十年間に、ハインラインアシモフといった何人かの「SFの老大家」が何人かの若手の批評家たちによって攻撃されていながら、それがスタージョンのSFにたいしてなされていないのは、注目すべきことである。わたし個人としてはむしろ、スタージョンの最高作よりもアシモフハインラインの最高作のほうをとる。なぜならば、この二人は何ものをも装ってはいないからだ。

彼は「SFのオルツィ男爵夫人」であり、彼の名声はファンダム全体としての批評能力のなさのさらなる証しである。

◎「スタニスワフ・レム=インタビュー」ダニエル・セイの書簡によるインタビュー(1973)/野口幸夫訳 別冊奇想天外4『SFの評論大全集』(1978年)に収録より引用。


この『別冊奇想天外』刊行時に、スタージョンの短編「成熟」は未訳。
のちのちに、若島正編の『海を失った男』で日本初翻訳され、話題になった作品である。これが読めるようになって、ようやくレムが何にムカついていたのかが、日本の読者にもわかるようになった。
なお、この「成熟」はスタージョンの作品の中でもかなりマイナーなヤツだったようで。上記のレムへのインタビューが、アメリカのファンジンに掲載された際、編集者が「このレムの説はおかしい。そもそも、スタージョンに『成熟』などという作品はあるのか」と反論文を書いて載せたらしい。(翻訳の野口幸夫は、「その作品はある」と補足している)


なお、そんな小説を書いてしまうスタージョンは、確かに、実に妙ちくりんな人で・・。
うちらスタージョン好きからすれば、みうらじゅん的にいえば「それが、いいんじゃない!!」なのである。
このスタージョンのよさ(というか、気持ち悪さ?)は、まっとうな知性の塊のレム先生にはわからないだろうが。


なお、レムが認める(「好き」とは書いていないのは、この人のひねくれたところ)SF作家は。

ベスター、ル・グイン、ウォルター・ミラー、オールディス、ディレイニー……D・ナイト、J・ブリッシュ(の短編)、J・ウグロン(フランスの作家)、フランスからはもう一人キャプーレ=ジュナック、ヘルベルト・フランケ(ドイツの作家)
だが、大半のものは恐るべき駄作だ。

だとか。アメリカSFを強烈に批判しながら、かなりの作品を読んでいることがわかる。


あと、ディックを評価していることは知っていたが、このインタビュー内でも「ディックの『ユービック』をポーランドに紹介しているところだ」と書かれている。


(2010年2月18日追記)
1997年に行われた、「柴田元幸/宮脇孝雄/若島正」鼎談において、若島正氏がこの「レムによるスタージョン批判」にディレイニーが反論している旨を、紹介されていた。
http://www.inscript.co.jp/wl/wl2.htm

ディレイニーは小説よりも、批評家としての文章のほうが、おもしろいような気がします。最近アメリカのマイナー出版社から、スタージョンの短篇全集が刊行中ですけれど、各巻の頭に有名な作家たちがスタージョンについての文章を寄せているんです。
第2巻でディレイニーが書いているんですけれど、これがすばらしい。今まで書かれたスタージョン論の中でもいちばんいいものではないかと思うんです。
レムがスタージョンの有名な‘Maturity’という作品を批判したことがあったのですが、ディレイニーに言わせればそれは的はずれで‘Maturity’があれほど有名になったのは、何度も書き直しているからだ、というんですね。もうすでに発表した作品を、他のアンソロジー採録するときに書き直すということをやった作家がいるということは、すごいことですよ。ほとんどの作家は言葉は悪いけど、書き捨てですからね。そういうような事情をレムはご存知ない、と批判していました。

うーん、ディレーニーの原文にあたらないと、わからないけれど。この論旨だけだとレムの批判に対抗できていない気がするなあ。
スタージョン短編全集」はペーパーバックで最初の2冊くらいを買ったけれど、もう処分してしまったなあ。