情報時代 石原藤夫

「きみたちは運がいい」教授は上品な笑顔で学生たちを見わたしながらいわれた。「入るときはやさしく、出るときには引く手あまただろう……」
 学生たちも笑顔でうなずいた。
 もう十七年も昔、ゲバ棒ということばがなかった頃のお話である。いわゆる学生運動で警官が構内に入りはじめるよりも、さらに何年か前のお話である。
 昭和二十年代のおわり、世の中の情勢は少しずつかわりはじめていた。就職難の時代がおわりに近づきつつあったのだ。
 ニ十年代の就職難はかなり深刻なもので、大学をめざす人たちは、すこしでも就職に有利な学校、学科に入ることに全力をつくしていた。そのためには、二年、三年と浪人することもめずらしくなかった。浪人はいまでもめずらしくないが、殺気がちがっていた。
 したがって、工学系を受験する人たちは、売れのこることの比較的すくない機械工学や電気工学をめざした。自然、それらの学科は入試がむずかしく、秀才でなけれぱ入ることができなかった。ところが、電気通信関係は就職がなかなかたいへんで、その結果としてとうぜん入試の競争率は低く、入りやすかった。先生が、「入るときはやさしく……」といわれたのはそのことである。
 しかし、科学技術と時代の変化は、電気通信学にたずさわる人たちの一部によって見ぬかれていた。あと数年すれば、モーターや電流機関車よりも通信の伸び率のほうか脚光をあびる時代が到来するであろうと−−。先生が「出るときには引く手があまただろう……」といわれたのはそのことである。
 われわれにもそのような予感があった。
 電気通信というと、船にのって電信機をたたくオペレーターしか連想されなかった時代だったのだが、やがては、弱電も強電(当時はそういう名称で電気工学と電気通信学を区別することが多かった)にまけない花形になるにちがいないと感じたのである。
 そして、事実そのようになった。
 電気通信は通信工学、電子工学と呼ばれることが多くなり、電気工学科の一部で電気通信が教えられていた大字では、通信工学科や電子工学科が独立するようになった。
 エレクトロニクスということぱが登場し、トランジスタが講義の中にはじめてとり入れられた。
 就職難の時代が、あっというまに求人難の時代に変化した。希望する就職先に行けなかった学生のたまり場だった大学院が、研究の場に変化しはじめた。そのような変化が眼にみえはじめた頃、われわれは卒業した。
 先生の予言は適中したのである。
 われわれは、このんで、”情報”ということばを口にした。シャノンの創始した”情報理論”の論文に陶酔し、来日したウイーナーの講演をきいて、サイパネティックスと情報との関係を議論し、興奮した。
 イラストレーターの緒方健二氏によると、情報ということぱは、発音するとき、母音が全部口をすぼめる形なので、やや暗いムードをもち、また、戦争中のスパイや取りしまりを連想させることがあるという。たしかに、情報といまわしい秘密事項とが頭の中で短絡する人たちもいるようであるが、官権によって口が封じられた経験のないわれわれにとって、情報ということぱは、美しい数学的体系にささえられてひかり輝く宝石であった。
 就職して数年後、日本でもトランジスタをつかった電算機が完成し、情報時代はいよいよその巨歩をふみだした。
 筆者が、世の中は情報だけでは成りたたないことに気づいたのは、かなりあとになってからである。
 情報を送る通信路をつくりあげるためには、シャノンの情報埋論だけではなく、精密な電力供給装置や鉄塔が必要であり、無線通信装置の保守をする人たちのかよう道を山の中につくることも必要だった。
 機械と電力と人間とが動きださないと、情報もまた動くことができなかったのである。
 それから十年がすぎた。
 最近になって、情報とかシステム(このことぱも情報と同じ頃われわれの前に現われはじめた)とかいうことばが、一般の人々の口にものぼるよりになり、社会がそれによってふりまわされだした。
 情報は、もはやわれわれ通信技術者のものではなくなってしまった。情報という文字を週刊誌で眼にするたぴに、わたしの理性は喜び、感情は愛玩物を独占できなくなった悲しみで起伏する。
 いまわたしがしきりに考えるのは、ふりだしにもどって、”情報とは何か”ということである。
 シャノン流の情報の定義がすでに過去のものであることは、技術者でさえ口にする時代となったが、では情報とは−−とたずねるとまだはっきりした答はもどってこない。
 なにか、機械と人間と自然とに関係したものであるにはちがいないのだが、わたしにはわからない。
 SFがそれに答えてくれるだろうか……?