わがSF文学観 福田淳

 ぼくはどうやらSFオンチということになっているらしい。畏友石川喬司君はその批判者の最たるもので、SFの話をしたがらないぼくを、いまや新しい文学のわからない人間にきめこんだりしている。石川君がぽくに向っていうSF観は、まさに天の声のような趣きを呈しつつあるのだ。石川君にしてみれば、ぼくのような”方向オンチ”のたぐいは、まったく骨の折れることなのだろうと思う。
 もっとも、SFの話をあまりしないというのは、一言でいえばぼくがそれほど読んでいないからにほかならない。といって、食わずぎらいでSFを避けているわけではない。ヘンペンたるSFの知識しかもたないぼくがエンサイクロペディアそのもののような石川SF博士を相手にして、どれだけ立ち向えるというのだろうか。それにぼくは該博な知識を泉のように、つぎからつぎととりだすには不向きな人間である。××オンチの必然性として、交通整理することぐらい苦手はないのである。
 ぼくはSFを読むのは、ミステリの場合と同じで、互いに別なものとして処理してはいない。ただSFについていうなら、一般的にはいまだに”科学”に重点を置いた小説のように、誤解されている向きがある。その点、ぽくはSFを”科学”を証明する小説という期待をもって読んだことはない。だいたい、文学と科学とは相反するもの、というのがぼくのガンコな考え方である。おおざっぱないい方をすれば、科学は証明できることをどこまでも深く掘りさげる仕事だろうが、文学は証明できない分野をエイエイと追求してゆく性質のものである。SFが額面通り”空想科学小説”だったら、ぼくたちはたいへんに味気ない。
 アポロの月世界到着のことで、多くの人はSFの取材の分野が狭くなったと考えているらしい。SFはなにも、月の実体を解明するための小説ではないはずだ。つまり、そんな”事実”は、はじめから無縁なのである。といって非科学的なことを書いていいというのではない。似たようなことは一般の文学の場合に置きかえてもいえる。社会が発展して、個人の生活か豊かになれば、文学なんて無意味になるだろう、という考えなどはそのいい例である。ミステリについていえぱ、ミステリがもっとも盛んになったのはイギリスである。いや、ヨーロッパが中世紀から脱皮して、健全な市民社会がゆきわたるようになって、俄然、隆盛になりだした。イギリスでミステリが喜ぱれるようになったのは、イギリスかどこの国より市民社会が厳然と確立したことと、十分に関係があるからにほかならない。ミステリというと、タイハイの一変種と思い勝ちな人たちにとって、これはどう考えたらいいだろうか。
 SFに関して、ぼくは割に広い意味に解釈している。十ー月初旬、安部公房さんが自作を初演出した「棒になった男」を紀伊国屋ホールで上演したが、そのなかの「鞄」がとりわけおもしろかぅた。井川比佐志が赤いパンツ一つのハダカでうずくまるようにして”旅行カパン”にふんするのだが、それを市原悦子岩崎加根子の女友達がいろいろといじくりまわす。あるときは「本皮ね」といって、観客を笑わせたりする。しまいにはヘアピンでカギ(いずれも、手の動きだけで表現)をあけようとするが、そのたぴにカバンは無意味な声を発する。このさいの井川の独特の演技は、抜群のおもしろさであった。
 この芝届はオムニバスふうになっており、はじめの部分の「鞄」は”人間の誕生”を意味するという。観客の興味は、当然、カバンの中身はなんだろうということになるが、井川の演じたカパンは不気味で、奇怪で、ユーモラスで、残酷で……と本当に突拍子もないのである。ぼくは思わず、しばしぱSF的な興奮をおほえたものである。
 石川君はぼくをつかまえては「SFぐらい無限の可能性を秘めた小説分野はないよ」と煙に巻く。その点、一般の小説は、手法の面でもゆきつくところへゆきついた、というのが彼の考えである。(間違っていたら、ごめんなさい)。それに比べて、SFは宇宙が無限であるように果てしないというわけだ。ぼくも彼の話を間いていると、その通りのように思えてくるからしまらないことおびただしい。
 もう一度、安部さんの仕事にふれるが、ときおり、安部さんは別段、不思議でもなんでもない(がねらいは不気味さを意図しているのだが……)小説を発表することかある。たとえば「燃えつきた地図」などそうで、ぼくにはひどく常識的な題材のように思えた。描かれている世界がやや明瞭すぎ、主人公がやたらに自動車でグルグル走りまわっているだけの内容に感じられて仕方なかった。ぼくの好みとしては、どんなにちっぽけな材料を扱っていても、それがいつしか壮大な世界へとひろがってくれなければおもしろくない。SFのことに還元すれば、元来、いくらでも壮大になる世界だけに、内容が少しも壮大にみえなけれぱ、ぼくはその本をついに放棄する以外にないのである。
 またしても戯曲のことで恐縮だが、”幻の名作”といわれた秋元松代さんの「常陸坊海尊」(昨年、演劇座が再演して芸術祭賞を受けた)は、スケールの壮大なことでは滅多にヒケをとらない。これは都落ちする義経を弁慶らとともに守護していた海尊が恐怖にかられたあげく逃亡する。その後、自身の罪におののいた海尊は東北地方でよるぺない民衆の守護神として生まれ変わる。その「海尊伝脱」を底流にしなから、敗戦前後の民衆の悲しみやなげきをからませるという衝撃的な作品である。民衆は困ったときに「海尊さま!」というと、超現実的な手法のなかでビワを手にした修験僧の海尊がフイにあらわれ、民衆のなやみを一身に背負うような行動にでる。そのスゴ味は類がなく、ついには客席の至るところから、海尊が突如として出現しそうな錯覚にとらわれる。が、それは恐怖でなく、むしろ、観客を高揚した気分ヘつきあげてゆくのである。
 ぼくはSFやミステリに対しても、おもしろさと同時に、気分を上昇させてくれるようなのが、いちぱん好きである。そこまでくれば、もうぼくにはあれか、これかの区別はなくなる。