科学の檻 塚本邦雄 

 一頃のぼくにとってSFとは、「火星年代記」と「鋼鉄都市」がそのすべてであり、他を悉く消去してもこのニ作さえあれば良いと頑固に信じていた。勿論、ブラッドベリアシモフの最高作であることは、大概のつむじ曲りでも認めるだろうし、てはフィニイはどうした、ハインラインを忘れたか、バラードをなぜ挙げぬと詰寄る面々には、苦笑をかえすよりみちがない。何につけても晩熟のぽくが、SFを始めて読んだのは十二年前、'59秋に出た「第四次元の小説」(荒地出版社)だった。ここにはSFなどという呼名は全然出て来ない。そして結果的には、巻頭のポージスの「悪魔とサイモン・フラグ」から巻末のドィッチェの「メビウスという名の地下鉄」まで揃って<空想科学小説>であることを誇示している。ハインラインもここに肩並べた「歪んだ家」で初めてお目にかかった作家であり、佳作「夏への扉」(特にこの邦訳題名も、原題に即していて実にうつくしい)を読んだのは数年後であった。それはともかくこの小説集の中の一つ一つ、ほとんど記憶に残っていない。「火星年代記」の部分部分を、小笠原豊樹訳で暗誦できるぼくにとって、この稀薄な印象は異例のことだが、今読返してみても、新鮮無類であるくせに凡作ぞろいである。辛うじて記憶しているのは、メビュースの環にクラインの壺などという、手品の種、位相幾可学の応用問題くらいである。
 それ以後ぼくはSFの特に科学に妙にこだわりなから、数百のSFと称される作品を貪り読んだ。科学に縁が無い小説は固意地に、これは幻想小説として脇におき、別に愛することにしていた。もともとぼくは小説を、百貨店の売場か何かのように、部門別に色分選別することなど虫唾がはしるほど嫌いである。バイブルから野坂昭如にいたるまで東西古今次元入乱れ、面白けれぱ心中もしようし、面白くなければ屑籠にすてると言うとんとSF的な読書癖が身につき、その反動で枠に入れて、否檻に入れてこちらは何々小説といいたけれぱ、終始徹底するがよかろう、色分ならどんな寒色暖色の混合でも意地になってやり遂げてみせようと、変に絡む心意気で、ブラッドペリなどでも「刺青の男」は金輪際SFと呼ぶ気は無い。ぼくには<小説>があれぱ、強いてあえて無埋矢埋に貼紙つけようなら<幻惣小説>があればよいので、科学、非科学一向に構ってなどいられない。そこを枉げて構ってSFの古典となれぱウエルズが、そこのけそこのけ元祖が通るとばかり、昔クリケットで鍛えた敏捷な身のこなしで出御あそばそう。この一種のスーパーマンの、SFの申し子、否御先祖様については、貶そう者に神罰風の、定家もどきの威光を先ず鑽仰せねぱなるまいが、それに加えてぼく自身も「世界史概観」等々で一方ならぬ裨益を受けてもいることだから、オマージュの百枚奉りたいのは山々ながら、ただの一度もまことに感動した覚えがない。そこには光りかがやく先見の明と、怖るべき予言の力があるにはある。健康で高邁、かつ雄大な世界人的気魄に満ち満ちてはいる。そしてそれを認めれば十分なのではあろうが、ぼくの<小説>はそこには無い。「タイム・マシン」もあるいはヴェルヌの「悪魔の発明」も着想以外は退屈である。ウエルズのファンが芸術的香気ありと口を揃えて褒辞を捧げる「塀についたドア」や「水晶の卵」も、この種のものなら何もウエルズを俟つことはあるまいと思うのみである。空想と科学を統一して、更に今一つの「未来小説」なる貼紙を貼られそうな、「火星年代記」の徹底したニヒリズムの前には、すべてぼくには光を喪う。
 ウエルズの盟友、ヘンリー・ジェイムズジョゼフ・コンラッドは、彼のSFに慊焉たるものを覚えたればこそ、<純文学>をすすめたのだろう。芸術家づらはしたくないとジェイムズにむかって啖呵を切ったウエルズも亦、みずからの小説が<芸術>に縁遠いことを悉知していたに違いない。タイム・マシンに駕って現代に現れたウエルズが、「火星年代記」を読んだなら、必ずや顔をしかめ舌打して、その絶望的な文明批評を、毒を含んだ懐疑的な世界観を、眦つりあげて難詰し、長々と訓戒を試みることだろう。
火星年代記」二〇〇一年<月は今でも明るいが>の、あの六月に火星に下りて、なまじっかヒューマニズムとか良心を持っていたために、隊長に、しかも自分を愛してくれる隊長に撃たれて死ぬスペンダーの、暗澹たる悲劇が、果してウエルズにわかるだろうか。ほくも単なる悲劇ゆえに、人間を直視しているゆえにブラッドペリに手を振るのではない。呪われた、醜い、卑怯な、この人間なる生物を、かくもいとおしく、あふれる涙をおさえながら如実に謳った作家は空前絶後と思えばこそ、次元超越してウエルズの上におこうとするのだ。大上段にふりかぷるなら、ブラッドベリのもつ美学がぼくを魅了するのだ。この冴え冴えと澄み、苦味舌をうつブラッドベリの美学と、渾沌として錯綜し、熱を病んだようにとろりと甘く、然もその奥に叡智の目の光るバラードの美学は、まさに対照的であり双璧と言えようが、ぼくはどう言うわけか、バラードの作品に酔ったことも感動したこともなく、われながら奇異である。
 アシモフも亦その閲歴から見ればウエルズの申し子的である。ぼくは彼の作品の中から条件つきで、凡百のアンドロイドものの最高作として、「鋼鉄都市」を好むのみである。たとえばその続篇「裸の太陽」なども、第二章の旧友邂逅のシーンをのみ、前篇の余映として愛するが、他の夥しいお伽噺的SFには一向に舌鼓が打てぬ。ただ「鋼鉄都市」のイライジャ・ベイリ刑事と、人造人間のダニイル・オリヴォウ青年の交情の美しさ、清々しさは稀有のものであり、ぼくは唐突ながら、G・バクスト作「ある奇妙な死」の黒人刑事ファロウと作家セス・ピロの衆道関係すら連想した。これはSFではなくまして警察対犯罪人の関りあいだが。若しアシモフでなく、ブラッドベリが「鋼鉄都市」を書いていたら、すべての人間に絶望し、人造人間にのみ愛着を覚える人間達の一人として、このイライジャ刑事を浮び上らせたろう。利学のSにさえ拘泥せねば、古典はSFの宝庫である。「神曲」も「ガルガンチュア物語」も「千一夜物語」も、さては古事記も霊異記もお伽草紙もこれに類する数々の物語も、あるいは秋成の諸作、否その小説すべて、秀抜無類のSFである。近、現代に入るなら、アポリネールから石川淳まで、<芸術家づら>せぬ芸術家の諸作、SFならぬものを挙げる方が至難ではあるまいか。こだわるまでもなく、SFとは恐らく過渡的便宜的な一時期のことさらめいた呼称であろうし、またあることをぼくは願ってている。