『アジモフ』を推す 柴野拓美

 アイザック・アジモフ(正確にはアズィモフ)が、どうして日本ではアシモフとよぱれるようになり、しかも今日までそれが訂正されずに続いてしまったのか、私にはわからない。これは、E・E・スミス「レンズマン」ンリーズのキンボール・キニスン(正確にはキンプルに近い発音だ)がまかりとおってしまったのとともに、SF翻訳七不思議の一つといえるだろう。ラリイ・ナイヴンはすぐニーヴンになおされ、ヴァン・ヴォート(ヴォクトは誤読)も少なくともファン仲間では常識になっているというのに……アジモフの場合だけは、どうやら別格らしいのだ。私が「アジモフ」を主張するものだから、先日「アジモフというのはアシモフアメリカ方言だろう」という投書まで貰った。そうかもしれない。でも、アジモフ先生自らその「方言」を名のっていることは、氏の近著「時間と宇宙について(空想自然科学入門・4)」における「方位角(アジマス)」のくだりからも、明白なところだと思うのだが……。
 そのアジモフ氏が、作品には文字どおり宇宙をまたにかけた大活劇を描きながら、ご自身はマサチュセッツ州ポストン近郊に腰をすえたきりで、ロサンゼルスのレイ・ブラッドペリ氏とともに、「アンチ・フライ・ガイ(飛行ぎらい)ナンバーワン」の称号を争っていたことは、これもファンの間ではよく知られているが、つい最近その均衡が破れた。プラッドベリ氏が、TV番組出演のため、飛行船(アメリカ空軍にニ隻残っていた一隻)に乗ってカリフォルニア冲のクジラ見物をやらかし、競争から脱落したからである。もっともそんなゴシップはどうでもいいので、そのアジモフ氏の空想と現実のくいちがいが話題にのぼるたびに、私の連想は、すうっと十五年前の想い出につながり、その連鎖が、まるで安っぽいイルミネーションのように、ビカピカと明滅をはじめるのである。
 ……十五年前、昭和三十年。ハヤカワ・ファンタジイ・シリーズも、その前の元々社シリーズもまだ出ていないころだ。二十五年の誠文堂新光社「アメージング・ストリーズ」七冊がようやく話題から消え、パット・フランク「ミスター・アダム」、マックス・エーリッヒ「七三〇日の恐怖(巨眼)」などポツリポツリの単行本がかろうじてわれわれ愛好者を渇死から救っていた……その昭和三十年一月、とつじょとして室町書房刊「遊星フロリナの悲劇(宇宙気流)」が書店に現われたのである。おそるべきショックであった。現代常識を破った未来の階級社会、跳躍航法する豪華な宇宙船、稀薄な空間の気流がフロリナの太陽系にもたらす破局、そして捨てられた「人類発祥の地」地球……まさに当時のわれわれが求めていた「SFらしさ」そのものが、そっくり眼の前につきつけられたのである。
 この室町書房シリーズには、十数冊の刊行を予告しながら、実際にはこの「遊星フロリナの悲劇」と、A・C・クラーク「火星の砂」の二冊を出したのみで潰えたか、この平井イサク氏の訳は細部を除いてそのままハヤカワ・SF・シリーズ、そして世界SF全集へ引きつがれており、その価値はゆるがせにできないものがある。一面からいえば、それは翌年の元々社シリーズにさきがけて、日本SF界のその後の奇妙な足どりに対し、責任の一半を負っている。つまり、前SF段階たるスペース・オペラによる、奇想天外ないわゆるSF的アイデアの開発と熟成の期間をあっさり飛びこえて、その極限的な設定の上に立つ小説テーマともども、日本という処女地へほうりこまれたという点で……一般の読書界が消化不良をおこし、潜在的ファンには麻薬として働いたのも、むしろ当然といえるだろうし、また私の場合、最近の形而上的な幻想味の勝ったニューウェーヴの潮流に、SF独特の何か貴重なものが見失われていくような危惧を感じるのも、もしかすると、この当時にうけたショックが大きすぎたせいかもしれない。そうだとすれば、まったく罪なことをしてくれたものだともいえる。
 日本SF界のその後の発展は、ある意味において、V2号の打上げ実験からはじめて次第に小型のヴァイキング等に至り、それからあらためて大型化していった、アメリカ宇宙科学界の歩みとも似ているようだ。打ちあけたところ、E・R・バロウズのロマンや、「スカイラーク」「レンズマン」等E・E・スミスのスペース・オペラ集大成などが紹介されるまで、日本SF界は、現代SFの巨大な本質を、いたずらに手さぐりしつづけていたように、私には思われる。
 いや、現在その手さぐりは、終ったのだろうか? 同じ譬えを許していただくなら、月到着を目標とするロケットの再大型化への歩みは、はたして踏みだされたのだろうか?
 もしや、踏み出す以前の段階で早くも息切れして、別ルートの例えば重力中和波の研究といったわき道に、逃げだそうとしているのではないか? さらにはそれが、日本だけのことでなく、オプザーヴァーとして最高の席にいた英国をはじめ、世界的な規模で起りはじめてはいないか?……
 それでいいのかもしれない。現実の月旅行とちがって、SF界では果してどっちが宇宙への近道なのか、いや、いったい宇宙が本当の目標なのかどうかということすら、誰にもわかりはしないのだから。
 しかし、一介のオールド・ファンとして、私はやはり、オーソドックスな巨大ロケットエンジンのメカニックな魅力を捨てきれないし、ことのついでに「アジモフ」の正しい発音にも固執したいというわけである。