ゲームSF短編集、宮内悠介『盤上の夜』(東京創元社)の囲碁・将棋の描写についての気になる点

この本自体は、ヴァリエーション豊富な傑作短編集との感想です。
★瑣末ですみません。また、当方の誤読がありましたら、申し訳ありません。
★宮内さんが、ご承知の上で。フィクションとして盛り上げるために、ご存知なのにあえて無視・改変していることがあれば、申し訳ないです。

★★著者の宮内さんから、以下のお返事をいただきました★★
https://twitter.com/#!/chocolatechnica/status/195130261866950656

  • 「盤上の夜」(囲碁
    • (11)P19 「囲碁普及のために訪中していた相田九段だった」
      • これはいつごろの時代設定? 現在の中国の囲碁の実力は日本を越えている。中国棋院(1992年に設立)はできているようだ。1992年頃の中国は既に日本と互角。「囲碁普及のため訪中」はおかしい。1980年代前半ならまだ「囲碁普及」でもおかしくない。
    • (12)P22〜P26 由宇のプロ入りの経緯が不自然
      • (12-1)プロ棋士やアマチュア棋士と非公式に対局して、圧倒的な勝利をおさめたという記述がない。いくらなんでも相田九段の推薦だけでは無理。
      • (12-2)それに由宇の年齢なら、通常の「入段試験」(院生と外部の人とが1年間、参加して、初段になる人を決めるリーグ戦。毎年上位数名が初段になれる。)を受けてもよかったのでは。
      • (12-3)なお、実際にアマチュアから「プロ入り試験」で関西棋院に入った坂井秀至は、アマ時代にプロに多数勝利した。
      • (12-4)「入段試験は三人の五段棋士と二人の九段棋士を相手に」というのが不自然。まず、「入段試験」ではなく「プロ編入試験」(上記、坂井の場合)。「入段試験」は初段になるための試験。
      • (12-5)「プロ編入試験」は、普通は若手の四段−六段あたりを当てる(上記、坂井の場合がそう)。
    • (13)P29 「男性の棋戦でも成績をあげるようになったのは、引退間際になってからだ。最優秀棋士賞。碁聖。そして本因坊。」
      • 本因坊碁聖はタイトル。最優秀棋士賞は年間の成績優秀者に与える賞なので、普通は並べて書かない。書くとしても、「碁聖本因坊。最優秀棋士賞。」が普通。(タイトルを取った結果としての「最優秀棋士賞」なので)
        • <<2013/4/20追記>> 将棋界では、タイトルを一つも取れなかったが、圧倒的な成績をおさめた羽生善治が「最優秀棋士賞」をもらったことはあるが。囲碁界ではタイトルなしで受賞した例はないはず。
    • (14)P35 「相田元九段」
      • 相田が引退したので「元九段」なのか。しかし、引退しても、普通は「元」はつけない。問題を起こして囲碁界を追放された場合は「元」をつけるが。追放された記述はない。
  • 「人間の王」(チェッカー)
    • (21)P59 「ティンズリーは三十三手先を読めた」
      • (21-1)これは本当? 私もチェッカーは素人なのでわからないが。相手の着手の分岐もあり、とても人間が三十三手も先が読めるとは思えない。
      • (21-2)詰め将棋や囲碁の「攻め合い」のような、部分的な一直線の別れなら数十手先が読めることもある。チェッカーは全局的なゲームなので、そんなに先は読めないだろうし。相手の着手の分岐があるから、意味がないのではないか。
      • (21-3)終盤に近づけば、ある程度読めるとは思う。であれば「終盤であれば○○手先が読めた」と記述すべき。
  • 「清められた卓」(麻雀)
    • 麻雀についてては、ほぼ専門外であるため、コメントなし。
  • 「象を飛ばした王子」(チャトランガ
    • (41)P167 「この「象」の駒は、やがて中国に渡り「虎」となり、それが日本の「銀将」となる。
      • (41-1)中国将棋(シャンチー)では、黒は「象」、赤は「相」。「虎」ではない。
      • (41-2)日本の将棋が、中国経由で伝わったのか、東南アジア経由なのか。現在、論争中。
  • 「千年の虚空」(将棋)
    • (51)P.214 「対局に出れば勝つのだから降段することもないのだが」
      • 将棋プロについても、囲碁同様に、降段制度はない。
        • <<2013/4/20追記>> 正確には将棋の奨励会(プロの養成施設、三段〜六級)には「降段・降級制度」はある。また、将棋のプロにあるのは「順位戦のクラスがおちる」降級制度。
    • (52)P.217 「また、この時期にようやく九段に達している」
      • (52-1)将棋界では、普通、このような表現はしない。囲碁界では「九段=最高段」という意識が強いが。将棋界では九段になることは、それほど重要視されていない。
        • <<2013/4/20追記>> 「この時期にようやくタイトルをとった」「この時期にようやく棋戦優勝を果たした」等が自然。
      • (52-2)「八段になる=名人戦挑戦者決定リーグに入る」ことのほうが大事。さらに、タイトルを取ることのほうが10倍くらい大事(タイトルを3回とれば九段になれる)。
    • (53)P217〜219 恭二が王位戦の予選トーナメント決勝で勝って、タイトル挑戦権を得たように読める(「タイトルが視野に入ったときのトッププロの粘り」という表記があり)。
      • (53-1)何組もある予選を抜けて。そこで加入する王位戦リーグで優勝する必要がある。
      • (53-2)囲碁、将棋とも「予選」は、最後の決勝トーナメント/決勝リーグの前段階のトーナメントのことをさす。
    • (54)P225 「恭二は過去未来のあらゆる、名人を、王位を、竜王を背負っている。」が不自然。
      • (54-1)タイトルの格順なら「竜王を、名人を、王位を背負っている」が正しい。
      • (54-2)300年以上の歴史がある「過去未来のあらゆる名人を背負っている。」が一番自然。
    • (55)P239 一郎と恭二が「六枚落ち」で勝負している。
      • (55-1)六枚落ちはプロとアマの級位者との手合いであり。いくら恭二がトッププロであっても、元奨励会員の一郎との手合いではおかしい。
      • (55-2)ブランクを考えても、飛車落ち〜二枚落ちが妥当。
  • 「原爆の局」(囲碁
    • (61)P244 「碁打ちとは、とかく理由をつけては海を越えたがる」に呉清源が入っている
      • 呉は「天才少年」として見出されて、当時の囲碁の本場だった日本に送られた。少年の彼には「本場で修業したい」という気持ちはあっても「海を越えたい」という意識はなかったはず。
    • (62)P244 「古くは幻庵因碩である。(略)家元である井上家の当主にして準名人の立場にありながら、嘉永六年、清国への密航を計画する。」
      • 幻庵の密航は隠居後のことで、当主の座は既に譲っている。当主のまま海外に行こうとするほど、無茶な人ではなかった。
    • (63)P250 「何しろ囲碁棋士は数が多い。タイトルを分け合うようなトッププロ同士であっても、調べてみると、ほとんど対局していない場合もある」
      • 囲碁棋士の数が多くても、トッププロの数は少なく、トップ同士は必ず対戦を重ねている。
    • (64)P260 井上九段の「囲碁とは、運が九割の技術が一割です」の発言(対麻雀プロに)
      • (64-1)囲碁棋士でこのような発言をする人はまず、いない。
      • (64-2)幻庵が「碁は運の芸」と言ったのは、技量が互角のものが互いに最善をつくして、最後の最後は運の可能性があるという意味。「運が九割」という意味ではない。さらに、彼が名人碁所の勝負に負けたことの負け惜しみの意味が強い。
        • <<2013/4/20追記>> 実際は「指運」で破れたとしても、それを「運」というのは普通はプロのプライドが許さない。「自分の実力が足りなかった」とプロなら必ず言う。タイトルを総なめにするような「絶対的な第一人者」なら、「囲碁や将棋の世界は広すぎて、解明しきれない。運の要素も大きいです」と言っても、おかしくはないが。井上九段はそこまでの存在には書かれていない。
    • (65)P280 「四劫」のことを「いわば千日手」と表現しているが。
      • 劫は囲碁用語で、千日手は将棋用語。囲碁の局面を将棋の用語で説明することは普通しない。二つの大石の両取りを狙う手を「この手は王手飛車とり」とは普通は書かない。「将棋でいえば王手飛車」「将棋でいえば千日手」という表現なら、許容範囲。
    • (66)「四劫」になる流れがおかしい。
      • 実際に4箇所のコウで石をとって、それが繰り返されるうちに、対局者・立会人の合意で四コウになる。
    • (67)P281 無限の碁盤での征(シチョウ)と「千日手」のたとえ
      • 細かい話だが「千日手」の使い方がおかしい。「千日手」は全くの同一手順の繰り返し。無限の碁盤でのシチョウは、互いの石が斜めに延々と伸びてはいくが、位置がずれている。全くの同じ手順が繰り返される訳ではない。
        • <<2013/4/20追記>> 上記の将棋の「千日手」の私の説明が間違えていました。以前は「同一手順の繰り返し」だったが、その規定に不足があり「同一局面の繰り返し」に、近年、改訂されている。