ウエルズ雑感 小倉多加志

 現代イギリスのすぐれた批評家であり小説家であるV・S・プリッチェットはその評論集『現代作家論』の中に、『サイエンティフィック・ロマンス』という題でH・G・ウエルズをとりあげている。「タイム・マシン」から「空中戦」まで読んで、彼がこれらの作品から得た第一の印象を解放感だ・・・・・・自分がこれまでにいだいていたあらゆる抑圧感が、それらを読んでいるうちに消滅したと述べ、この解放感こそ今日のわれわれの環境において必要なあらたな要素だと言っている。そしてさらに読けてウエルズの空想科学小説を、ジョナサン・スウィフトの「ガリヴァー旅行記」と比較している。が、プリッチェットによれば、彼の感じた解放感の原因の一つは、ウエルズが当時の社会環境に対する認識か深かったからだと言う。スウィフトとウエルズの間には百五十年の隔たりがある。十八世紀は静穏な世界に信頼のもてた時代で、スウィフトの空想したことはすべて現実に起ったものだが、ウエルズの空想したものは現実に起ったものではない−−すべて可能性だった。
 人間の営みはすべて問題の提起と解決によって進歩する。ウエルズがその空想科学小説の中で提起した問題は、今日すでにその解決が与えられている。同じ宇宙を対象にしても、人類が人工衛星を打ちあげ、アポロが月に着陸して月世界の詳しい探検まで行われようとしている今日−−そしてさらに人間が火星や金星へ宇宙船をとばそうとしていることも、明確な科学の裏づけのあることを多くの人たちが正しく認識している現代では別に不思議だとは思われないし、その成功に驚嘆するより以上に、満足感をおぼえ、祝福をおくるだろう。人類の夢がこの地球を離れて、遠く広い宇宙へ拡がって行くのも当然なことと考えるにちがいない。実現の可能性を多分にもつ夢だからだ。しかしウエルズがその空想科学小説を発表したのは、今日の資本主義の形態がようやく形を整えはじめ、科学万能の傾向が宗教まで圧迫して人間の心に深刻な不安をいだかせた十九世紀の末だったのだから、それらの作品は当然おどろきと同時に興味をもって読まれはしただろうが、今日の「可能かも知れない」とはちがって、あくまでも単なる「夢物語」にすぎなかったにちがいない。彼と同じ世紀末の、しかも彼とは反対に<芸術のための芸術>の大立者だったオスカー・ワイルドは、「自然は芸術を模倣する」という逆説的な名文句を吐いたが、この<自然>を<現実>に置きかえれば、ウエルズのそうした小説に描かれた「夢」が今日の「現実」となったこともおもしろいし、彼の作品に予言的性格を見るのもまた今日的な見方なのだ。彼のこの種の作品がSFのさかんな現在では古典に祭りあげられで、株もかなり落ちたようだが、啓蒙家、社会改良家、文明批評家、科学小説や本格小説の作家としてなど、彼ほど多才で精力的な作家は英文学史上でも数えるほどしかないのだ。それだけに彼に関する評論も多く、今日までに書かれたものは単行本その他を含めて実に三百二十を超えている。もうこれだけいろいろな角度からとりあげられ検討されたら充分だろうと思っていたら、去年はまたL・ディクスンの詳細かつなかなか興味ぶかい評伝「H・G・ウエルズ」が出た。それだけ彼の魅力はまだまだ大きいのだろう。彼がもっと早く死んでいたらその価値はさらに大きかっただろうとか、彼の作品には文学的価値がないとか、いろいろに言われるが、たしかに彼はブロパンガンディストの要素が強く、そのため思想小説にかなりのエネルギーを浪費したことは認められるし、彼自身、自分を芸術家とは考えていなかったようだが、彼のユートピア的思想や社会改良家としての熱意も、これまたワイルドの「人生を支配する科学的法則を知ってしまえぱ、夢想家以上の幻想の持ち主は、ただ活動家のみであることが分るだろう」が奇妙な意味を暗示する。彼は科学的教養を身につけたが、もともと文学的資質があり、想像力も豊かだった。それらを考え合わせてみると、彼の足が大地についているとき彼の作品はユートビア小説や思想小説となり、足が地上を離れたときそれが空想科学小説となったといってよさそうだ。
 今日のSFはある程度データと素材が出揃った観がある。これからどういう新奇な構想がとび出すか興味ぶかいが、タイム・マシンにしろタイム・トンネルにしろ、こうした類のものはその発想をさぐればかなり古典的なものに辿りつくようだ。ウエルズも作品の模倣性を云々されている。独創性にかけるというのだ。なるほど彼の「モロー博士の島」はポー、スウィフト、キプリング、メアリー・シェリー、スティヴンスンから拝借した部分が多いとか、「失われた遺産」はモーパッサン、傑作「盲人国」もレミィ・ド・ダールモンから材料を借用したなどと言われている。そしてウエルズ自身そうした点を認めているが、彼のすぐれたストーリー・テラーとしての才能はそれを彼なりに咀嚼して彼独自の形にはめ、あたらしい童話を−−科学を魔法に置きかえたあたらしい童話をつくったことで、現代の小説の鬼才コリン・ウィルスンと同様だと言ってさしつかえあるまい。その点ウォルター・アレンになるときわめて同情的だ。彼は、プリッチェットとはちがった視点から見て、ウエルズは当時のイギリスにおける他のどの作家よりもすぐれた才能をもっていたし、文学に対する真剣さには欠けていたかも知れないが、小説に向けるべきものを人類のために放棄したのは、究極的には人類の損失だったというのだ。わたしもそれに同感だ。

『宇宙戦争』とわたし 野田昌宏

 ウエルズの『宇宙戦争』がはじめて邦訳されたのがいつなのか、くわしいことはなにも知らないのだが、私より上の世代のかたがたのなかには、改造社版の大衆文学全集の一冊によってはじめてこの作品に接したという向きかかなり多いはずである。茶色のクロース表紙の小型のハードカバーで、ポケットにすっぽり入る大きさだったから、学校の行き帰りなどに電車の中で読みふけったものである。たしか、ヴェルヌの『海底ニ万リーグ』とで一冊になっていた。昔からこの二つが代表的な空想科学小説とされていたという事実は、べつになんの変哲もない、至極あたりまえのことにはちがいないのだが、なにか、ひょいと奇異な感じに打たれたりすることがある。
 人それぞれに好みはあるだろうが、私なんぞは、高性能潜水艇と世をすねた艦長の物詰よりおそろしく凶悪な蛸が地球に攻めこんでくる話の方がはるかに興味深く、『宇宙戦争』の方ばかりを愛読したように覚えている。
 ウエルズがこの『宇宙戦争』を執筆したのは一八九八年、彼が三二歳のときのことであり処女作『タイム・マシン』を発表した三年後にあたる。そもそも彼は他の惑星にも生物が存在するかどうかという問題についてはかなり古くから興味をもっていたらしく、まだ学生だった一八八八年の十月十九日、Royal College of Scienceに於て "Are the Planets Habitable?" というテーマの討論会が開催された際に講師の一人として参加し、”火域表面の最近の観測結果には、生物が棲息していると推測されるたくさんの証拠がある”と論じており、また一八九六年にはサタデー・レヴュー誌の四月四日号 "Intelligence on Mars" という論文を発表している(これは無署名だが)。SFに現われる火星人といえば、まず、あの蛸みたいな軟体動物のスタイルが圧倒的に多いのは、勿論、ウエルズの『宇宙戦争』の影響だが、一体、彼がどんな経緯であんな火星人を思いついたのかはさだかでない。しかし彼自身、自分の創造した火星人のスタイルに大いに愛着を感じていたらしく、読者から『宇宙戦争』の本にサインを求められた際も、サインと共に件の火星人のスケッチをものにしたりしている。これは一般に描かれているものとちょっと違って、足がひどく短かくちょうど玉ネギをひっくり返した感じで、馬鹿に大きな眼玉が二つ、ひょっとこみたいにとんがったロがついているというひどくユーモラスなしろものである。『宇宙戦争』といえば、近代宇宙SFの始祖的な存在であるが、彼があの作品のテーマとしてとりあげているのは、宇宙旅行とか火星人とかに対する単なる興味でないことは言うまでもない。このことは、前記サタデー・レヴュー誌の彼の論文をあたってみるとわかることだが、彼はその中で、″かりに火星に高等生物が存在したとしても、われわれと彼等との知性にはなにひとつとして共通するものはないだろう″と結論づけている。そのまったく異質の高等な智能が、われわれ地球に接触してきたら一体どんなことになるのか−−『宇宙戦争』のメインテーマはそれである。
 一九二〇年にウエルズは『宇宙戦争』執筆のきっかけについてこんなふうに書いている。″この作品(『宇宙戦争』)は兄のフランクと話しあっているうちにふと思いついたものである。われわれは町の中を散歩しながらこんな話をしたのだ。「他の天体の生きものが、だしぬけに空から降りてきたと考えてみろよ」と彼は言った。「そして地球を占領してしまうんだ」そして私達はヨーロッパ人がタスマニアを発見したときの話をしたと思う。ヨーロッパ人がタスマニアを発見したことはタスマニアからしてみれば大変な災難だったにちがいないなどと……。これがきっかけであった。私は当時(−−SF的な作品を続々と発表していた一八〇〇年代末期−−)、単調な目常生活のくり返しによっていつの間にかつくられてしまっている見せかけだけの平和や自己満足が、思いもよらぬとんでもない事態によってどう変化するかというテーマに無味を抱き・・・・・・”
 ウエルズ以前にも他の惑星の生物を空想した作家はたくさんいた。だが、それらはすべて地球人そっくりか、地球人の亜流でもあり、彼等の知性なるものも、高低の差はあっても地球人とのコミュニケーションが可能なものとしてとらえられてきた。ところがウエルズの火星人はちがう。ウエルズの火星人はそもそも地球人のいう人間ではなくて”蛸”だというのだ。人間が蛸と話し合おうといくら努力したところでそれは所詮無理な話。しかも、その蛸というやつがおそろしく高い智能とテクノロジーを駆使して地球に侵入してたら・・・・・・。
 これはもう、地球人が今日まで他の下等生物に対して行なってきた数限りない蛮行を思い浮べるだけで十分だろう。かつて人間は一度だって蛸に文化があるなどと考えたことがあったか? 蛸が人間の蛮行に対し抗議し、哀れみを乞おうと必死のコミュニケーションを試みていようがいまいが、そんなことは一切おかまレなしに、手当り次第にとっつかまえては好き勝手な方法で食ってしまったではないか。地球人は今、その報いをうけることになったのだ。
 ウエルズは、火星人を蛸みたいな下等な軟体動物のスタイルをとらせることによって、万物の霊長たるホモ・サピエンスを二重の意味で卑小化してみせて、逆に宇宙というものの底知れぬ複雑さとスケールの巨大さとを見事に提示してみせたのだ。そして、コペルニクスによって一応はひっくり返されたといいながら、なおも人類の心の中に根強く残っている地球中心説−−いわゆる人類至上主義なる発想の甘ッちょろさ加減を痛烈にやっつけたのである。
 マリナー計画によって、秘かに抱いていた火星人への期待もついに空しく消え去ろうとしている。太陽系は地球人類だけの独占物というわけか? あながち御同慶ともいい兼ねる心境なのはあなたと同じ。光速宇宙船が太陽系外へ進発するその日まで、地球人が唯我独尊をきめこむのは勝手だとしても、まことにイロ気のない話ではある。過ぎ去ったあの日々。屋根の上に干した布団に寝そべって、『宇宙戦争』に胸ときめかした春休みのなにか甘酸っぱい大気の中で、まさしくあの火星人は生きていたのに・・・・・・。

”神様と”時間様” 深町真理子

 昨年、ある団体に加わってヨーロッパに遊んだときのことであろ。なにしろ、一面識もない同士だから、食事の席などでは必ずおたがいの職業、境遇の詮索が始まる。
「翻訳をやっています」
「ほう、どういう?」
「ミステリとかSFとか」
 わかったふうなわからないような顔。
 いちいち。面倒だし、だいいちそのほうが有難そうに聞こえるから、こっちも敢えて説明しない。しぜん会話はそれ以上には発展しない。ひとりだけ例外がいた。
 「SFというと、タコの化けものみたいな火星人か襲来してくるという・・・・・・?」
 いや、笑えない、笑えない。七年前に翻訳を姶めたときの私のSFにたいする認識が、まさにこの程度のものだった。爾来、幾星霜、だんだんわかってきた。なにが? 翻訳するのにやさしいSFとむずかしいSFがあるということが、である。由来、SFの翻訳はむずかしいと言われる。いや、実際にむずかしい。ではなにをもってむずかしいというか。科学用語や専門語か頻出して、正しい訳語に苦労するということもあるだろう。概念としてはわかっていても日本語になりにくかったり、著者が新語を繰りだすので、こっちも新語をもって対抗せねばならぬということもあるだろう。あるいはまた、発想、思惟方法にSFらしい飛躍があって、日常性に埋没した観念作用ではついてゆけぬということもあるだろう。このほかに、あまりにばかばかしくて、翻訳していてしんが疲れるというのもあるが、これはまあ論外としておく。一般にSFの翻訳をむずかしいと言うとき、この第一の場合、せいぜい第二の場合までを指して言うことが多いようである。しかしなんといっても、”タコの化けもの”的感覚から出発した私にとって、いちばんむずかしいのは第三の場合である。これにくらべれぱ、第一、第二の場合は、むずかしいというよりむしろややこしい、面倒くさいというべきで、それにこれはSFのみならず、どんなジャンルの翻訳にもあてはまることである。
 アーサー・C・クラークは私の好きな作家である。理由は簡単、やさしいからだ。クラークの長篇で、私の手がけたのは『渇きの海』一本きりだけれども、あのなかに出てくる人間はみなあまりにも人間的、かなしいまでに人間のさがをむきだしにしていて、そっくりそのままハりウッド製映画にでもなりそうだった。『宇宙のオデッセイ2001』は例外だけれども、クラークの作品にはおおむねこの傾向があって、日常性にどっぷりつかりこんでいる私などでも、けっこうついてゆける所以である。
 ところで以上はあくまで翻訳家としての発言であって、読者としては、もっと人間ばなれのした、”あっと驚く”ような視点から書かれたもの、人間人間していない人間の出てくる作品を読んでみたい気がする。といっても、なにも『わが輩は怪物−−もしくは異星人−−である』を書けというのではない。いくら書いたって、それが現実の人間世界の反映であれば、在来の作品となんら変わらない。
 そうではなくて、現行のものの見方をまったく排した、なにか清新な眼の感じられるものはないだろうか。
 アシモフの『永遠の終り』は、時間管理機関<永遠>が舞台である。これが翻訳していて、文中いきり、"Time"という言葉がとびだしてきたときにはぎょっとした。子供の”タンマ”じゃあるまいし、そこで”タイム”をかけられるいわれはなにもないのである。ところがその先で、今度は "Father Time!" というのが出てきて、ようやくこれが "God damn you!" や "Jesus Christ!" (どうも女だてらに汚い言葉ばかりで申し訳ないが)の同類らしいと納得がいった。つまりこの作品の世界では、”神様、仏様”に代わって、”時間様”が幅を利かせているのである。
 これはいくらか私の考えているものに近い。けれどもこれは、たんに単語ひとつだけの問題にすぎず、到底それが作品全体にまで及ぶところまで行かないのは、主人公ハーランの行動ひとつをとってみてもわかる。 
 これも私の手がけた作品に、カートミルの『連環』というのがあった。『時間と空間の冒険1』におさめられている。原題は "The Link" で、いわゆる”失われた環”の環にあたる存在、ロクが主人公である。
 ロクにとって、鰐は”長鼻”であり、鹿は”斑点のある跳躍者”である。ことばを持たないロクにとって、これは当然だろう。ここまではいい。しかし、それを言うなら、”鼻”とか”斑点”とかいうことぱも同様にないはずであり、”長い”、”跳躍するもの”等の観念も、こういうことぱとしては存在しないはずである。とすると、どういうことになるのか。そもそもロクという名はだれがつけたのか。わからない。いくら考えてら頭が混乱するばかりだ。結局この作品全体を否定するよりほかなくなってしまう。
 ロクの眼で、ロクの言葉で、ロクの世界を描いた物語、それはないものねだりだろうか。
 で、もしあったら、おまえさん翻訳するかって? お断わりだ、楽しく読ませていただくだけで結構である。

翻訳者紹介

宇野利泰(うの・としやす)
明治四二年東京に生まれる。
昭和七年東京大学文学部卒。
英米文学翻訳家。
主訳書
 ロバート・シェクリイ「無限がいっぱい」(早川書房刊)
 レイ・ブラッドベリ「華氏四五一度」(早川書房刊)
 ジョン・ル・カレ「寒い国から帰って来たスパイ」(早川書房刊)


多田雄二(ただ・ゆうじ)
昭和六年札幌に生まれる。
昭和二九年法政大学英文科卒。
英米文学翻訳家。
主訳書
 デイヴィッド・マクダニエル「ソロ対吸血鬼」(早川書房刊)
 トーマス・ストラットン「人間改造機」(早川書房刊)