『宇宙戦争』とわたし 野田昌宏

 ウエルズの『宇宙戦争』がはじめて邦訳されたのがいつなのか、くわしいことはなにも知らないのだが、私より上の世代のかたがたのなかには、改造社版の大衆文学全集の一冊によってはじめてこの作品に接したという向きかかなり多いはずである。茶色のクロース表紙の小型のハードカバーで、ポケットにすっぽり入る大きさだったから、学校の行き帰りなどに電車の中で読みふけったものである。たしか、ヴェルヌの『海底ニ万リーグ』とで一冊になっていた。昔からこの二つが代表的な空想科学小説とされていたという事実は、べつになんの変哲もない、至極あたりまえのことにはちがいないのだが、なにか、ひょいと奇異な感じに打たれたりすることがある。
 人それぞれに好みはあるだろうが、私なんぞは、高性能潜水艇と世をすねた艦長の物詰よりおそろしく凶悪な蛸が地球に攻めこんでくる話の方がはるかに興味深く、『宇宙戦争』の方ばかりを愛読したように覚えている。
 ウエルズがこの『宇宙戦争』を執筆したのは一八九八年、彼が三二歳のときのことであり処女作『タイム・マシン』を発表した三年後にあたる。そもそも彼は他の惑星にも生物が存在するかどうかという問題についてはかなり古くから興味をもっていたらしく、まだ学生だった一八八八年の十月十九日、Royal College of Scienceに於て "Are the Planets Habitable?" というテーマの討論会が開催された際に講師の一人として参加し、”火域表面の最近の観測結果には、生物が棲息していると推測されるたくさんの証拠がある”と論じており、また一八九六年にはサタデー・レヴュー誌の四月四日号 "Intelligence on Mars" という論文を発表している(これは無署名だが)。SFに現われる火星人といえば、まず、あの蛸みたいな軟体動物のスタイルが圧倒的に多いのは、勿論、ウエルズの『宇宙戦争』の影響だが、一体、彼がどんな経緯であんな火星人を思いついたのかはさだかでない。しかし彼自身、自分の創造した火星人のスタイルに大いに愛着を感じていたらしく、読者から『宇宙戦争』の本にサインを求められた際も、サインと共に件の火星人のスケッチをものにしたりしている。これは一般に描かれているものとちょっと違って、足がひどく短かくちょうど玉ネギをひっくり返した感じで、馬鹿に大きな眼玉が二つ、ひょっとこみたいにとんがったロがついているというひどくユーモラスなしろものである。『宇宙戦争』といえば、近代宇宙SFの始祖的な存在であるが、彼があの作品のテーマとしてとりあげているのは、宇宙旅行とか火星人とかに対する単なる興味でないことは言うまでもない。このことは、前記サタデー・レヴュー誌の彼の論文をあたってみるとわかることだが、彼はその中で、″かりに火星に高等生物が存在したとしても、われわれと彼等との知性にはなにひとつとして共通するものはないだろう″と結論づけている。そのまったく異質の高等な智能が、われわれ地球に接触してきたら一体どんなことになるのか−−『宇宙戦争』のメインテーマはそれである。
 一九二〇年にウエルズは『宇宙戦争』執筆のきっかけについてこんなふうに書いている。″この作品(『宇宙戦争』)は兄のフランクと話しあっているうちにふと思いついたものである。われわれは町の中を散歩しながらこんな話をしたのだ。「他の天体の生きものが、だしぬけに空から降りてきたと考えてみろよ」と彼は言った。「そして地球を占領してしまうんだ」そして私達はヨーロッパ人がタスマニアを発見したときの話をしたと思う。ヨーロッパ人がタスマニアを発見したことはタスマニアからしてみれば大変な災難だったにちがいないなどと……。これがきっかけであった。私は当時(−−SF的な作品を続々と発表していた一八〇〇年代末期−−)、単調な目常生活のくり返しによっていつの間にかつくられてしまっている見せかけだけの平和や自己満足が、思いもよらぬとんでもない事態によってどう変化するかというテーマに無味を抱き・・・・・・”
 ウエルズ以前にも他の惑星の生物を空想した作家はたくさんいた。だが、それらはすべて地球人そっくりか、地球人の亜流でもあり、彼等の知性なるものも、高低の差はあっても地球人とのコミュニケーションが可能なものとしてとらえられてきた。ところがウエルズの火星人はちがう。ウエルズの火星人はそもそも地球人のいう人間ではなくて”蛸”だというのだ。人間が蛸と話し合おうといくら努力したところでそれは所詮無理な話。しかも、その蛸というやつがおそろしく高い智能とテクノロジーを駆使して地球に侵入してたら・・・・・・。
 これはもう、地球人が今日まで他の下等生物に対して行なってきた数限りない蛮行を思い浮べるだけで十分だろう。かつて人間は一度だって蛸に文化があるなどと考えたことがあったか? 蛸が人間の蛮行に対し抗議し、哀れみを乞おうと必死のコミュニケーションを試みていようがいまいが、そんなことは一切おかまレなしに、手当り次第にとっつかまえては好き勝手な方法で食ってしまったではないか。地球人は今、その報いをうけることになったのだ。
 ウエルズは、火星人を蛸みたいな下等な軟体動物のスタイルをとらせることによって、万物の霊長たるホモ・サピエンスを二重の意味で卑小化してみせて、逆に宇宙というものの底知れぬ複雑さとスケールの巨大さとを見事に提示してみせたのだ。そして、コペルニクスによって一応はひっくり返されたといいながら、なおも人類の心の中に根強く残っている地球中心説−−いわゆる人類至上主義なる発想の甘ッちょろさ加減を痛烈にやっつけたのである。
 マリナー計画によって、秘かに抱いていた火星人への期待もついに空しく消え去ろうとしている。太陽系は地球人類だけの独占物というわけか? あながち御同慶ともいい兼ねる心境なのはあなたと同じ。光速宇宙船が太陽系外へ進発するその日まで、地球人が唯我独尊をきめこむのは勝手だとしても、まことにイロ気のない話ではある。過ぎ去ったあの日々。屋根の上に干した布団に寝そべって、『宇宙戦争』に胸ときめかした春休みのなにか甘酸っぱい大気の中で、まさしくあの火星人は生きていたのに・・・・・・。