町山智浩「ブレードランナーの未来世紀」(洋泉社 asin:4896919742)

図書館本、いまごろになって、読了。「映画秘宝」連載時にみな、読んでいるのだが、かなり加筆がされているようで、とても、面白い。 


当然、AMAZONのレビューも沢山出ていて、こちらのレビューが秀逸だった。

シリーズ前作と同様、著者は本書でも「はじめに」で、率直に執筆意図を明かしています。私など、まったく申告通りの本だなァと思うのですが、あんまりアカラサマなんで、多くの人は気に留めないで通り過ぎてしまう様子です。
 前作では60年代末に登場した「ニューシネマ」の諸作品がハリウッドの旧体制に風穴を開ける場面から、『ロッキー』(76)により再びその穴が閉じられ、ファンタジーに回帰するまでの歴史が辿られました。本書ではその後の80年代、コングロマリットの傘下に取り込まれたハリウッドで、映画がマーケティングに基づいて背広族が企画する単なる「製品」になってしまった時代が対象です。
 ただし取り上げられるのは、そうした時代における「映画作家」、つまりアウトサイダーたちです。だから「カルト・ムービー篇」なんですね。
 ただし、確かに80年代の「映画作家」は70年代とは異なります。70年代の監督たちが旧体制に対する批判者、反抗者として自己を確立していったのに対し、本書に登場する「映画作家」たちはもっとずっと自分自身に忠実です。小難しく言うと、否定から肯定に転じている。モダンからポストモダンに移行したワケですね。
 タイトルから明白なように、本書では『ブレードランナー』は格別の扱いを受けています。私なりの解釈ですが、それは本書で取り上げられた他の作品群が「無意識的に」ポストモダンであるのに比して、『ブレードランナー』がポストモダンを表象しようとしているから、ではないでしょうか?
 次回作は「ブロックバスター篇」だそうです。期待してます。

この本で取り上げられているのは、以下の作品。

いわゆる、「カルト映画」というには「グレムリン」と「プラトーン」は違う気がするが、「監督自身の人生経験が、映画にナマで出ている映画」という意味での「カルト映画」ばかりだ。
そして、序文では、これらの映画は、みな「素晴らしき哉、人生」に影響を受けていて、あの映画の「荒廃しきった街」と「理想の街」とが、入り混じった風景が、どの映画でも展開されている、と書かれている。


しかし、これだけ個性の強い監督たちでも、映画のすべてをコントロールするワケにはいかない。単なる偶然や、スタッフやキャストの思いつきや状況でも、映画は変わる。町山の本では、そういった点まで、きちんと書いているのが面白い。
たとえば、「ロボコップ」のあの特殊な動き。あれは、ピーター・ウェラーロボコップ・スーツを着せたら、重すぎて通常の動きができず、大学のバレエ研究者の指導で、なんとかああいう風に「動けた」という。


また、これは前作「映画の見方がかわかる本」での例だが、「地獄の黙示録」のマーロン・ブランド。彼は全然偉大にみえず、木偶の棒に見える。このことを、「現代における絶対的権力者の不在」などと評論した評論家がいたが、単にマーロン・ブランドが「準備不足」で、肥満しきっていて演技できる状態ではなかったから、ああなったのだ。