江原恵「包丁文化論」

http://d.hatena.ne.jp/sujaku/20040502#p2

江原恵の『包丁文化論』っていう、1974年に出版されたすんごい本があるんだ。それは、日本料理を愛してやまない料理人によって叩きつけられた燃えあがるような日本料理批判の本なんだ。

http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2004/05/post_4.html

江原恵さんの『庖丁文化論』は、1974年に講談社から発刊されてから今年で30年になる(エナジー叢書の懸賞作品の入選作だから発表は前年だった)が、当時の学者研究者や専門家以外で、この本について述べる人と出会ったのは、やっと2人目である。

id:sujakuさんと遠藤哲夫先生とのエール交換。なんかいいです。江原恵「包丁文化論」って、私もエンテツ先生のHPで見て気になってたんですが、とりあえず、ネット古書店に注文してみました。

それで、ついでにエンテツ先生の論をもう少し紹介。

で、江原恵さんの「庖丁文化論」はいまからちょうど30年前ぐらいに発表されたものだけど、内容的にはイマこそ考えるべきことがたくさんあるのだ。と、つねづね思っていて、ま、「大衆食」という「切り口」も、その一つなのだが、やはり、江原さんの「庖丁文化論」や「生活料理学」については、イマの時点で理解しなおす必要があると思っている。
なるほど、「ふるさとの味」も「シュンの味」もよいものだった。たしかに、農林漁業の衰退は、それをこのまま放置しておくわけには、いかないだろう。が、それは食卓や料理の環境変化のことであり、それぞれの家庭の食卓や料理の課題として考えた場合、「伝統食」に還ればよいのか、実際にかえることができるのか、という問題が残る。そして、その場合トウゼン「伝統食」とは何か、ということになる。
とかく、この小泉武夫さんの発言のように、生産の問題あるいは文明論レベルの問題を、日々の食卓と料理のレベルに持ち込み、「伝統」だ「スローフード」だと観念的なオシャベリをしていれば、コトが片付くような風潮が続いている。しかし、そんなオシャベリでは、なにも片付かないのだ。そういや、30年前にも「ユックリズム」なんて言葉がはやったりした。
日々めしをつくり食べなくてはならない現実においては、つまり日々の食卓と料理のレベルにおいては、環境変化に対応しうる「食べる技術としての料理」の向上が必要なのだ。そういうことを江原恵さんは30年前に主張し、カレーライスも刺身も同じ日本料理としてとらえなおすことで、日本料理の伝統を生活料理として構築しようとした。