高田文夫のおじ(?)は高田俊郎という「映画評論」発行人。

先日の「高田文夫のおじ」問題、退屈男さんが「本街探偵」さんに相談したところ、たちどころに以下のような回答が返ってきたそう・・。さすがだ・・。
http://taikutujin.exblog.jp/7335674/

例の件だが、【高田俊郎】という人物がどうやらアヤシイようだ。『キネマ』『新興映画』『映画評論』といった古い映画雑誌の編集、発行人等としてその名を見ることができる。まぁ、まだ指先を遊ばせただけの調査だがね。文雄と俊郎の関係についてだけでよければ、もしかしたら『「映画評論」の時代』(マガジンハウス/佐藤忠男岸川真編著)という本があれば解決する話かもしれん。だが、俊郎と保のつながりとなると、ウム、もう一調べ必要というところだろう。


退屈男さんの文体自体が「ワトソンとシャーロック・ホームズのやり取り」のパロディになっていて、おかしい。


それで、今日の仕事の帰りに図書館に寄り、佐藤忠男岸川真編の「『映画評論』の時代」という本を借りてきた。(この本自体、前から気になっていた本なので、今回の件は「渡りに船」だ。)


そして、読んでみると、高田文夫自身が寄稿していた(146ページ)。
ちょっと引用。

私は二十二才の時に放送作家という肩書きからスタートして(略)芸能一色。今思えば、これはひとえに”高田俊郎おじさん”の血なんだと思う。芸術好きで出版好き、まさにドンピシャ。私の父と俊郎おじさんが一体どんな関係だったのか・・・・・・小さい頃からわが家では”俊郎おじさん”と呼んでいたのでおじさんには間違いがないようだ。私の父は国文社という主に歴史物の出版社を経営していて、父の会社の取締役にも俊郎おじさんは名を連ねていた。ま、私の家系は親戚中みんな出版社をやっていたから、誰がどんな雑誌で何を出していたかなど幼な心にも気にも止めていなかった。法事などで親戚が集まると「俊ちゃんは”映画評論”ばかりじゃなくて、たしか”近代映画”とか”キネマ旬報”とかもやってたんじゃないか」ななんて話をよく耳にする

(文夫の姉のせりふ)「俊郎おじさまは、何しろダンディだったわネ。おしゃれでおしゃれで。ジャン・ギャバンみたいだったわよ。」

学園紛争が吹き荒れた昭和四十年代前半、日大芸術学部の学生だった私は、その当時もっともとがっていた映画雑誌「映画評論」を毎月購読していた。そして仲間の映画青年たちに、雑誌の奥付けの「編集発行人・高田俊郎」の名を見せ、ちょいと鼻を高くしてみせた

というように高田文夫は回想している。ちなみに、この回想には「高田保」のタの字も出てこないので、高田保とはやはり無関係のもよう。「高田俊郎」も本当に「父親の兄弟」かどうか・・。遠縁の親戚かもね。


そして、残念ながら、元編集長の佐藤忠男の回想では、戦前から映画出版を手がけていた高田俊郎は名義上は「編集・発行人」ではあったが、この時代の「映画評論」の内容にはタッチしておらず、「単なる経営者」であったようだ。
以下、佐藤の回想を引用(121ページ)。

実際問題として「映画評論」という雑誌は経営が成り立っていない。あれを出版しているのは映画出版社という高田俊郎さんがやっていた会社です。もともと高田さんは、戦前から映画のファン雑誌を出版していた。戦前の松竹蒲田とか松竹大船、日活多摩川などの撮影所を特集した雑誌で、名前も「蒲田」とか撮影所名をつけていた。内容はそこにいるスターや映画情報を載せていて、これが人気で売れていた。
しかし戦時中、雑誌も統合されてしまって(以下略)

そういう経緯で高田さんは「映画評論」を任された。ファン誌なら関心は深かったんだけれども、評論誌だったのでそこまで関心はなかったと思います。

ということで。