キャビアの味 伊藤典夫

 SFの厖大な凡作の山のなかから、久しぶりに気にいったのが見つかり、訳すことにきめる。はじめたばかりは鼻歌きげんだが、そのうちどうしようもない泥沼にはまりこみ、おそろしく悲壮な気持でむりやり訳しおえ、締切りはすぎているのでしかたなく編集部へ持っていって、あとはただそれののる雑誌が店頭から消える日を待ち望む。あとで単行本に再録されるのなら手を入れられるが、その見込みのないときは、そんなものを訳したことをただひたすら忘れたい。
 訳者としての恥をさらすようなものだか、ぼくをそんな目にあわせた作家が、今までに三人いる。ジェイムズ・プリッシュJ・G・バラード、そしてもう一人が、この本に収められているシオドア・スタージョンだ。前の二者は読んでるときからして、だいたいわからない。でもやたらにおもしろいので、日本語にしてみたくなり、悪戦苦闘して訳しおえたとき、「ああ、そうだったのか!」と思いあたったりする。スタージョンの場合は、ちょっと違う。内容もむつかしくないし、体質的に合っているのだろう、スムーズに読めるのだが、いざ訳す段になって事情か変る。−−こちらの言語感覚に挑戦してくるのだ。
 文章に凝るといってしまっては、味もそっけもない。
「英語と情事にふけっている」という評が、このときこそ意味を持つ。書かれている英語を、そっくり日本語に置きかえたら、救いようのない読みづらい翻訳になることはわかりきっている。何行も続く長い文章は、最近の日本語にはほとんどないし、英語の長い構文は、日本語には無縁のものだ。ところがスタージョンを訳しはじめると、そういった常識にさからいたい気持が、むらむらと湧きあがってくる。この文章をこんなところで切ったら、作者の意図している全体の流れが途切れてしまうのではなかろうか。この曲折した文章は、そのままではとても日本語にはならないが、かりにいちばん近いかたちで訳せるとしたら、どんなふうになるだろう。といった問題が、数珠つなぎになって現われ、泥沼に踏みこむことになる。
 ほかの作家ではそれほどでもないが(なかにはシェクリイみたいに、まったく抵抗なく訳せる作家もいる)、彼の場合は、原文に忠実に訳さなけれぱいられないような気がしてくるのだ。
 スタージョンが、アメリカ本国ではハインラインアシモフなど巨匠と同列に並べられながら、わか国で意外と訳されない理由は、一つにはそんなところにあるのかもしれない。日本人にとっては読みづらい作家であり、訳しづらい作家なのだ。大きなことをいっているぼくにしても、この『夢見る宝石』 The Dreaming Jewels は最初の長篇でもあり、大衆性を意識して書かれているので、それほど困難もなく読みはしたが、近作『ヴィーナス・プラス・X』 Venus Plus X などはいまだに手が出ない。
 ここでもう一つ、スタージョンの一筋縄ではいかない特異性が問題になってくる。それは、アシモフやクラークで代表され、一般にそういうものだと信じられているSFとは、まったく趣きを異にする彼の幻想の世界だ。ブラッドベリと共通点を見出すこともできるが、ブラッドベリには少年的感性とヒューマニズムという、誰にでもとっつきやすい売りものがあった。スタージョンでは、それが、アメリカのSF作家にはめすらしいデカダンスと、「愛」になる。「愛」だけなら、文章がいくら訳しづらくても、もうすこしわが国の読者の需要はあっただろう。だが、そのデカダンスと「愛」の離れがたい渾融が、すなわちスタージョンなのだ。翻訳されている彼の作品のなかで、代表作といわれるものを考えてごらんになるといい。『一角獣・多角獣』 E Pluribus Unicorn のなかの「ビアンカの手」Bianca's Hands 「孤独の円盤」 A Saucer of Loneliness 「めぐりあい」 It Was't Syzygy またハヤカワ・ミステリ・マガジンにしばらく前に掲載された「輝く断片」 Bright Segment' そして『人間以上』 More Than Human もまた例外ではない。そのアブノーマルなところが、読者に違和感を与えるのだろう。
 だが、ていねいにお読みになれば、彼が「愛」の普遍的なかたちをさまざまなシチュエーションのなかで模索していることがわかるはずだ。(便宜上、「愛」と一言でかたづけてしまったか、作品によっては、それが「憎悪」のこともあるし、「好奇心」のこともある。「彼は人間を追求しているのだ」これはグロフ・コンクリンの言葉だけれども、「SF作家は人間をあまり描こうとしない」などと、SFをおまり読まない連中が常日頃いうので、内部のものがこんなふうに仰々しく騒ぎたてると、かえって陳腐で、わざとらしく聞える)
 ただ、スタージョンがあまりにも「人間」にかかずらいすぎるので、物語のなかの科学的な要素と人間的な要素が、しっくり噛みあっていない作品があることも事実だ。というより、全体を見わたすと、本格的SFをめざした作品より、そんな範疇にはいらない、掴みどころのないファンタジイやその周辺の作品に、目を見はるような傑作が多い。
スタージョンの小説は、宇宙船が出てくるともう駄目だ」こういったのは、ぼくの友人でスタージョン気違い(といってもいいだらう)のT君だが、本当にそんな気がする。彼がスタージョンの最高作だとすすめている長篇『きみの血を』 Some of Your Blood もSFからはおおよそかけはなれた、地に足のついた怪奇ファンタジイだ。
 こう考えると、日本人的な感覚かもしれないが、スタージョンの作品を「キャビアの味」と評した言葉も適切に思えてくる。とろけるような舌ざわりと、噛みしめたときのしょっぱいような、苦いような味、そしてあの生臭さ。嫌いだというなら手の施しようはないが、好きな人間にはこたえられない、それがキャビアの味であり、スタージョンの魅力なのじゃないか。