災厄の物語 浅倉久志

 人類絶滅の物語は、SFでもいちぱん人気のある分野の一つだ。なぜこのテーマがあきもせず書かれ、そして読まれるのだろう? 極限状況をどう書くかが、作家の意欲をそそるからか。文明批判、人類再認識の格好の素材であるからか。また、それが読者にとって新しいスリルであり、欲求不満のカタルシスであるからか。
 もう一つ、なぜこのテーマが、とくにイギリスのSFに多いのだろう? アメリカSFのお家芸スペース・オペラ、日本SFのそれがサイボーグ・テーマだとすれば、イギリスSFを代表するものは破滅テーマだといってさしつかえない。すでにこの全集で出ているウインダムの『トリフィドの日』をはじめとして、クリストファー、クーパー、メインといった作家たちが、ありとあらゆる種類の世界の終末を描いてきているのだ。なぜ? あるアメリカの書評家が冗談まじりに書いたように、イギリス人にはその小さな島国がいつ海にもぐるかもしれぬという、先天的不安があるからか。それとも、タイムマシンや宇宙船といった、アメリカSFの手垢のついた道具立てに反撥する、この国の作家たちの矜持の現れか。それとも、いかに主人公が災厄を生きぬくかの道程が、冒険小説の長い伝統を持つイギリス人の性格にびったりくるからか。
 だが、この集におさめられたバラードやオールディスの新しい作品になると、ちょっとそれでは説明しされなくなる。とくにバラードの場合、これまでに発表された四つの長篇がすべて破滅テーマに属するものであるにもかかわらず、冒険やスリルには完全に背を向けた作風なのである。そこでは、主人公の生存の闘いも、災厄の原因も、もはや問題ではない。災厄の科学的説明さえ、ときには省略される。そして作者は、ふしぎにいのち長らえた主人公の目にうつる災厄後の世界のイメージだけを、執拗に描きつづける。作者の言葉をかりると、『風景は時間と空間の formalization であり、そして外界の風景はそのまま人間の内面心理が反映する』のだ。
 わけのわからないまえおきは、このぐらいにしよう。実はここで、『あるSFのジャンルに異様な魅力を与えているいくつかの要素を、抽出し表現しようとする試み』と銘うたれた、ある《新しい波》派のSFを紹介したいのだ。その『抽出』がバラードのいう<内宇宙>的な見かたでおもしろいのと、もう一つ、<新しい波>という名称で総括される、これまでのSFの概念とはだいぶかけ離れたしろものの一つのサンプルを毒見していただくために、残りのスペースで不手ぎわながらアプリッジを試みてみようというわけ。いくつかに分れた見出しも、パラードがコンデンズド・ノベルという形式で実験して以来、<新しい波>派の作家たちが盛んに使うスタイルの一つとお考えください。
作品の題名は "The Disaster Story" 作者はチャールズ・プラット。最近出たパンサー・ブック版の<ニューワールズ傑作集3>におさめられている。ではーー


     災厄の物語
<脱出>−−からになった世界に、私が自由の身で無事に生き残ることさえできるなら、その災厄はどんな種類でもいい。その伝染病にたまたま免疫だったとか、たまたま地下にいたときに最終戦争か起ったとか……それで充分。私の欲求は単純だ。自由になり、世界とふたりきりになること。そこではじめて、私は反復の毎日や、意味も目的もない作業から解放されるだろう。災厄のまえに人ぴとが口ぐせにしていた『自由』を発見でぎるだろう。
<イメージ>−−私は見捨てられたスーパー・マーケットの中で、蛆の列に加わって食物を漁る。傷んだヘリコプターで、太古の怪鳥そっくりに死滅した都市の上を舞う。コンクリートの牙のそそり立つニューヨーク、赤錆びた自動車のならぷデトロイト。私は地球という博物館を巨人の足どりでめぐり歩き、仮借ない災厄の通過の跡で足をとめる。掠奪された商店、靴がもぐるほどの埃。飾窓に空きビンを投げつけると、墓場のような静寂の中で、大音響を立ててガラスが砕ける。
昔、私を一粒の塵のように押しつぷすかに思えた巨大な技術文明。その残骸を思うままに砕きながら、私は生きる。
<きのう愛したもの>−−私はトランジスター・ラジオで、かすかな電波をキャッチする。無人の放送局の中で、針がすりきれたレコードの溝をいつまでもひっかいている−−『ゆうぺのように私を抱いて……』もはや意味のない歌詞。愛の渇きも怖れも疑いも、アルマゲドンで一掃された。セックスは抑圧された。
<放浪・捜索>−−窒息しそうな過去から解放されて、はじめて私は息づき、動きまわる。幻想の世界の主人公になって、純白の砂漠を真紅のスポーツ・カーでとばす。都市が背後に去る。鉄とコンクリートの人工物が塵に還元する。
旅。私は気のむくままに放し、世界をめぐる。スコットランドの丘からアルプスの斜面まで、あらゆる土地に見る究極の平和。時の流れの中で、氷河だけがむかしのままにゆっくりと動いている。
<夢の実現>−−旅は終る。文明のうつろな骸の検分を終え、私はこの新しい環境に適応する。ある日、私は地球最後の女とめぐり逢う。若く美しい彼女は、私の求める最後のシンボルだ。だが、人類最後の生存者は、依然として私だけである。なぜなら私は彼女をそうとは認めないからだ。この世界の中心は私である。彼女は私に服従し、私を愛し、私の気まぐれな情熱にこたえなければならない。
過去のすべてと絶滅して、払はこれまで読むひまのなかった本を読み、自給自足の生活を送り、日焼けした顔とまめのできた手を持つようになる。災厄前の都市生活者が夢見た、大地に親しむ生活。
<逃避病>−−私の欲求不満はこうして充たされるだろう。根の深い不安やノイローゼからも解放されるだろう。私は自己を発見し、そして自己になりきるだろう。
いまの私の願いはそうなることだ。なぞなら、それがいまの私に必要であり、そしてなによりも欠けているものに思えるからだ。つまり、私は逃避病に罹っているのだ。どこか角を曲ったむこうにある世界−−災厄のあとに実現されるだろう夢−−それがこの病気の療法なのである。災厄の種類はなんでもいい。からになった世界に、自由の身で無事に生き残ることさえできれば、幸せな自分をそこに見出せるのではないか−−そんなことを私は考えてみるのだ。