私の歩いてきた一本道 森優

 私にとって、SFとは何か。といっても別に大上段に振りかぷるつもりは、毛頭ない。元来が非論理的なザハリヒな人間だから、どうもそういうことは苦手である。ただ、私はいまSFの編集業にたずさわっている。SFのおかげで私の一家は路頭に迷わずにすんでいる。筒井康隆氏が、いつかこの月報欄で書いておられたが、もしもSFがなかったら、まさにこの世は闇。だから私にとって、SFが何を意味するのか、たまには考えてみなけれぱパチが当たるというものだ。
 もちろん、私がこの商売にはいったのも偶然ではない。来しかたをいま振り返ってみれぱ、物心ついたころから現在まで、歩いてきた道はほとんど一本道だった。まるでわき道がなかったかのように、私はわき目もふらず、その道を歩いてきた。
 幼い時分の私は、人一倍夢想家だった。もって生れた性格もあろうが、赤ん坊のころ父が異常なほど神経質で、汚れた息がかかるからといって、母以外どんな親しい知人だろうと、他人には抱かせなかったという過保護ぶりが、私の精神形成に大いに影響したにちがいない。もっとも父の話では、私が日赤の病院で生まれた時体重が標準の三分の二足らずで、医者に「この子は十日と生きられません」と宣言されたほどひ弱だったらしいから、無理からぬこととも思えるが。
 小学二年の時栃木に疎開した私は、都会者ということでイジメッ子の好餌となり、ますます自分の殼に閉じこもるようになる。画家だった父の血をひいたのか、昼はスケッチブックを日記代りに書き散らし、未明や賢治や『ピーターパン』の夢想の世界に耽溺し、父のもっていた画集をこわごわ開けては、フリードリヒやアルチンポルドの怪奇幻想の空間にのめりこんだ。夜はフトンの中が何よりの避難所で、やわらかいフトンのうねりがそのまま山や谷と変り、そこに私は空想の車を走らせ人を闘わせて楽しんだ。毎晩のように隣のお姉さんを白い裸にひんむいで殺す、甘美で病的な空想にふけり、母がもし明日死んだらという考えに怖気をふるって忍び泣く、感受性の強い少年だった。
 戦後の混乱期に父の画を買ってくれる人などいるはずもなく、私の一家はひどい貧窮にあえいだが、それでも父は、本だけは何とか金を工面して買ってくれた。父かあたえてくれたのは『青い鳥』から『クオレ』まで子供向けの名作ならなんでもという無方針さだったが、私はその中から敏感に好みの幻想怪奇的なものばかり選びとって耽読した。それでも足りずに、父に禁じられていた少年冒険小説や講談本のたぐいも読みあさったが、ここでも好みはおのずと出て、『敵中横断三千里』や『赤穂義士伝』などはまったく受けつけなかった。
 この極端な好みの偏向は、昔ほどではないが今でも続いていて、小説なら私の好みに合うのは、ポー、ホフマンなどロマン派の幻想文学あたり、自然主義的傾向のものは外国・日本を問わず退屈で読み通す根気がない。現代作家だったら、どちらかといえぱヌーヴォロマン的な作品がいい。小さいころから親しんだ絵画も、高校時代から目を開いた音楽も、すべて好みはロマンチシズムからシュールリアリズムに至るものがほとんどだ。
 要するに、精神分析的にいえば、少年時代の私は、他からの制約に縛られて身動きもできぬみじめな現実に代えて、他人の構築した起現実的な世界の中で、自我をとりもどそうとあがいていたのだった。
 こうした傾向は、高校時代、受験にはさほど必要でもない天文学、古生物学、考古学へ熱中したことにも現われている。このような科学分野への傾斜が、ロマンチックな幻想芸術への陶酔と結ぴついて、SFへの嗜好を育くんだのは、いわば必然的なプロセスであった。
 むろん、それまでにもすでに海野十三高垣眸などの科学冒険小説に接してはいたが、とても満足のいくものではなかった。当時はまだ、質の高い海外の現代SFはまったく邦訳されていなかったし、僅かに一部紹介されていたヴェルヌやウエルズも、田舎の高校生にはジュヴナイルでしか読めなかった。わずかに飢えを満たしてくれたのは、手塚治虫氏の『新宝島』から『ジャングル大帝』にいたる一連の新鮮なSF漫画ぐらい。その影響で漫画を書きはじめ、<漫画少年>への投稿漫画が連続人選したこともあって、一時は受験勉強をほうり出して、SF漫画家になろうかと本気で考えたほどの打ちこみようだった。
 その受験時代、一年の浪人中に、たまたま上京して古本屋で手に入れたのがハインラインの『人形つかい』だった。英語力涵養に好適と聞かされていたミステリの原書を探していたときに、ふと目にとまったのだ。さっそく読んではみたが、半分読んだところで物語の設定がおぼろげにわかった始末。今から考えれば俗語の多い文草だから、歯が立たなかったのもムリはないが、それではと次に文章のやさしそうなシェクリイとブラウンを買った。『人間の手がまだ蝕れない』と『天使と宇宙船』のニ冊がそれで、その時は知らなかったが、どちらもSF史上に名を残す作品ばかりだったからたまらない。安部公房氏のことばを借りれば、「日常を活性化し、対象化し、人間の意識を揺さぶらずにおかぬ」仮説に満ちたSFの魅力に、私はたちまちとりつかれてしまった。
 昭和三十二年、どうやら入試の難関を突破した私は、東京に定住したのをいいことに都内の古本屋めぐりを始めた。そんな過程で知ったのが、日本最初のSF同人誌『宇宙塵』に集まった星新一氏、柴野拓美氏らのグルーブだった。それはその後の私の人生を決める重大な契機となった。この人たちのおかげで、私はこの新らしい文学への大きな可能性をはらんだものに、生涯を託してもいいと考えるようになったからだ。
 SFは現実逃避の手段である、とよくいわれる。私にとっても、SFがたしかにそうした働きをもっていることを否定しない。しかし何より私にとって重要なのは、SFに接することによって、日常的な現実の中で溺死することから自分の精神を救い出せそうだからだ。いいかえれば、つねに新らたな発見の衝撃をSFから受けることによって、自己の存在を再確認し精神の老化から逃れることができそうだからである。SFの未熟さゆえに、いつもそうだとはいえない。幻滅を感じることも再三ある。しかし、私はもはやこの一本道から決して足をそらすことはないだろう。