SFまがい 久野四郎

 流石に近頃はSFといっても新製品普及協会と間違える奴はいなくなったが、若い年代は一応別として、あまりSFを読んでますという人達は多くないようだ。NASAの努力の結果として、SFなることばが多くの人々に理解された割には、パッとしないといわれている。
 しかし、考えてみれば、それはある程度他の分野でも同じことがいえるのではなかろうか。例えば推理小説ブームといわれる時代があり随分騒がれもし、どの雑誌にも一本や二本の推理小説が載るようになったが、これがいわゆる本格的推理小説かどうかという点になると、いささか異論があるところだろう。推理小説風に味つけをした風俗小説とでもいうぺきものとして扱うべき作品が多いような気がする。そして、それはそれとして、いいのではないか。
 本格的ということぱの定義にもよるが、これは一般文学の世界についてもいえるのではなかろうか。純文学といわれるものがどれほどの人達に読まれているかを考えて見れぱ、決して多くはあるまい。読書人口の大半は、いわゆる中間小説といわれるものを愛好しているといっても、異論ではなかろう。どの分野でも「本格的」なものの愛好者は意外に少ないものだ。
 SFが読まれない。SFが普及しないというとき、我々は本格的なものを考えているのではなかろうか。SF風に味つけをした風俗小説などというものは、あまり議論の対象になっていないような気がする。しかし、一頃ブームとなった山田風太郎の忍者ものにしたところで、考え方によってはSF風に味つけをした時代物といえぱいえるだろう。あらゆる分野で「SF風」に味つけをしたものが現われてもいいのではなかろうか。
 アメリカのSFを考えるとき、スベースオペラが果たした役割を除外するわけにはいかないだろう。現在日本で訳されて出版されているものは、ましな方で、当時書かれていたものの中には、だいぶひどいものが多かった(というのは野田宏一郎氏の受売り)のだがそういうものから入門した連中が、どれだけの貢献をしたかはいうまでもない。カリフォルニアやテキサスを火星や木星に移しただけの宇宙ウェスタンや騎士物話りのシリウス版や美女のヌードがふんだんに出て来るロケット物が、はたして正確な意味でのSFといえるかどうかは別として、少なくとも底辺を拡げるためには大きな力となっていることは否定できないだろう。日本でも宇宙三度笠や、火星座頭市があってもいいし、銀座の女給と箱根にしけ込む代りにルナシティーの女の子と、あたりにしけ込む小説があってもいい。とにかく、あまり固く考えない気楽なものが欲しい。
 もちろん、この全集をお読みになっている諸賢は本格的なSFファンだろうから、そんな生ぬるいSFが、いくらブームになったからといっても、あまり意味はないとお考えの方が多いだろう。しかし、ピラミッドの頂点を高くするためには、底辺を拡げなけれぱならない。ピラミッドの頂点だけが虚空に浮んでいる図などは、正に一般庶民にいわせれぱ「SF的j である。
 本格的なものを支持する人口からいえば、SFは決して少なくないファンを持っていると思う。例えば純文学の雑誌「文学界」や「群像」よりは「SFマガジン」の発行部数のほうがはるかに上回っているだろう。こういうファンは、それこそ中核隊であって、いくら生ぬるいSF風小説か多くなったからといっても、中心がこれらのファンにある限り行き先不明になることはあるまい。
 それでは、具体的にどういうものかいいかということになると、あまり自信のあるものがない。しかし、SFや推理小説というものは日常性を超えたところに価値があるのではなかろうか。時間旅行にしたところで、反重力にしでも、ベムにしても、我々の超体験のもの、未体験のもの、少なくとも日常生活でザラに起きるわけでないものをテーマにしたものがSFであり殺人とか、ぬすみとか、少くともまともな市民の日常生活ではザラに体験できないものをテーマにしたものが(しかも完全犯罪というこれまた起こりそうもないものを)推理小説だといえるだろう。
 とすれば、これらの分野は、いわぱ古来の怪談に近い役割を果たしているのであり、その点からいっても、もっと気楽に書いた作品が出ても許されるのではなかろうか。一部の専門家しか書けないもの、熱心なファンしか読めないものばかりでは拡がるべきものを狭い分野にとじ込める恐れがある。しかし、筒井氏や小松氏の精力的な仕事の中に、私は大いなる可能性を見ることができる。やがて、特にSFと断りがきをつけなくても、あらゆる分野にSF的要素が入るのが当然ということになるだろう。肩書きに「SF作家」と入らず、ただ「作家」と書かれるようになったとき、はじめてSFが地についた発展をとげたといえるのではなかろうか。