何かをして・・・ 金森達

 月ロケットは、あらゆる現代彫刻よりも、新しい。


 ヒューストン宇宙センターとアポロ宇宙船との間に交される無線の会話は現代詩を上まわる。


 音のひずみ、発信者、空電妨害、通信の中絶、これらの交信は、ほとんどの電子音楽をもしのいだ。


 気まぐれに歩くスーパーマーケットの買物客の足どりは、現代舞踏のどんな動作よりも豊かだ。
                                      −−アラン・カブロー


 更につけ加えるならば、ヘドロの海、街角のゴミの山も、ぼくの描く一枚のイラストよりも、うんとおもしろい。


 ほんとうに、そうであるのか。ほんとうはそうでないのか。ほんとうは、どちらでもないのだろうか。いや、ほんとうは、どちらでもよいのかも知れない。


 十数年前、ある旅先で、当時は放浪画家であった、山下清と同宿したことがある。名が知れていた彼は、宿のものに乞われて、スケッチブックに何か描いていた。それは何の変哲もない灰皿とタバコの一本であったが、彼のエンピツは丹念に点をつなぐようにして一本の線を引いていく。それも数十分は費しているのを妙に不思議にながめた。
 いや、今になって思うに、これはまさに不思議でもなんでもなく、人間の物を作っていく最も、原初的でかつ素朴な作業なのではないかと思える。
 われわれは常にたやすく、納得したかのように一本の線を引いている。それはほんとうに一本の線を引いたことになるのだろうか、いや、それは一本の線のように見える虚像だといえないか? 無論、虚像であってよいのかも知れない。そしてある確かさを認めながら、それと同じようにある不確かさが残るのを知っている。
 抽象的であるが、われわれは、時間とか、次元を視覚化することが出来ないのではないかと思いつつ、その可能性をさぐる。彼はその一つ一つのエンピツの動きにそれをさぐっているような気がした。それは勝手なぼくの錯覚なのだろうか。


 以前から思っていたことだが、SF文学(小説)はある。SF映画もある、SF音楽と呼ばれるものはない、SF絵画と云うのもやはりない。屁理くつのようだが、SF的音楽、SF的絵画、と呼ぽれることはあるかも知れない、しかし本来、そんなものがある訳はないのかも知れない。いや、SFと同じ次元で考えることのできる、同じ質ともいえるような絵画、音楽はあり得るとも云える。しかし、それはもっと適切な言葉で呼ばれていてそう呼ばないのか、それともSF絵画と云って差支えないとしても、それが一体どんなものかまた一寸見当がつかない。
 大ゲサに云えぱ、人間の持つ外なる宇宙と内なる宇宙の相剋から生れるイメージを最も幅広く展開することの可能な表現と世界が、そこにあれば、それをどんなかたちで呼んでもよいと思える。
 まあ、それとは別に、ダリ、エルンスト、ミロ、等のシュールレアリズムの画家たちや、また、キリコ、マグリット、等の意識や幻想、そして戦後のアンフォルメル絵画や、現代の環境空間芸術と呼ばれるものまでの思考と発想を、本来、SFが含んでいる筈のものと無縁のものではないと考えることは出来ないだろうか!
 SFという言葉と同義として、ぼくは常にその間口を拡げて勝手に理解する世界の、果てしない何億光年の遠い島宇宙の爆発から、必ず何処かにいると信ずる宇宙人(生物)たち、のことからはじまって、月ロケットのこと、われわれの脳細胞の出来具合のこと、もっと日常的な一日ニ四時間の一つ一つのこと、コップの中のビールの泡の世界のこと、また二日酔いのため、頭ががんがんしてどうしても起き上がれないことまで……etc
 ぽくにとってそれらがみな、科学的な証明や、論拠とは別なところで大変素朴な、フシギさと興味を持てるし、また持ち続けたいと思っている。


 冒頭に引用した一連の言葉が逆説的であっても、またそうでなかろうが、ぼくは人間が、この混沌と分裂から今も未来も逃げられないのではないかと思いたい。


 人間はどこから来て、どこへ行くのか……
 このことを考え、また考えさせられるもの。
 それは、SFをふくめて何であれぼくはそれに魅かれたい。
 おわりにそんなカタイこと考えたら到底SFなんか判らないと云われるかも知れないし、またそれは何のことはなく妄想だと片付けられるかも知れないが、それもまた、ぼくにとってたいへん楽しいことでもある。